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zoom RSS 狩野光男画 東京大空襲

<<   作成日時 : 2009/08/25 06:01   >>

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    体験者の証言による連作画 狩野光男・画(東京大空襲訴訟を支援する会・提供)

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   NO.3 本所菊川橋 1945年3月10日
     
     体験証言者・元木キサ子 10歳
 
 私は両親と末の弟を亡くした。

 防空壕に入っていると火の手が近くまで迫ってきて、強風と火の粉が渦巻く中、ただ夢中で走って逃げた。気付くと薄暗い公園(猿江恩賜公園)にたった一人で立っていた。

 朝になって家に帰ろうと菊川橋の方へ歩き出したが、道のあちこちに真っ黒になった焼死体が転がっている。何とも形容しがたいどろーんとした大きな大きな朝日が昇ってきた時の印象は強烈だった。

 菊川橋の上には天井ほどの高さに積み重ななりからみあった焼死体の山、黒い山から突き出した手、足、頭・・・・・・。川の中は水も見えない位、一面の水死体が何層にも重なり合っていた。

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 NO.4 西北地区空襲 1945年4月13日〜14日
   
   体験者証言・宮崎さと子 14歳
 
 私は母親と妹3人を亡くした。

 火勢が強まり、5歳半の弟を兵児帯で背負って逃げた。母親がバケツで防空頭巾に水をかけてくれたが、振り向きもせずに逃げたことを後々まで悔やんだ。それが母親との最後のふれ合いになった。火と煙に巻かれ、意識がもうろうとなったとき、背負った弟に背中を蹴られ、気を取り戻した。

 朝、自宅付近に戻ると、黒こげの死体が沢山転がっていた。防火用水に上半身を入れたままの遺体もあった。靴を無くし地面が熱い。靴下のまま、つま先立ちで歩いていると、父親と遭った。父は線路の横のドブの中で、トタンを被って助かったという。「お母さんたちは」と訊かれて、私は「知らない」と答え、弟を父に渡した。その後2・3日のことを、私は全く覚えていない。根津山の土を遺骨代わりにお墓に納めている。

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 NO.5 日立航空機立川工場変電所 1945年2月〜4月

        調査者・狩野光男

 日立航空機立川工場は軍用機のエンジンを製作し、1万を超える従業員が勤務する軍需工場だった。男女の中学校、高等女学校の生徒も勤労動員として働いていた。2月はグラマンF6F戦闘機、4月はノースアメリカンP51戦闘機、そしてB29による銃爆撃がくりかえされ、工場の機能は壊滅した。

 この変電所は最近まで使われ、壁面には銃撃の跡がそのまま残っている。平成5年、取り壊されることとなったが、保存を望む元従業員や有志の人々の熱意が実り、史跡として原形のまま保存されることになった。美しい公園の中に、60年前の戦争の傷跡が今も残っている。

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    NO.6 山の手空襲 1945年5月25日

      体験証言者・沼辺民子 24歳

 勤務先の大東亜省に行くと、黒く焼けた庁舎の廊下あたりで同僚の青年が亡くなっていた。青年を役所の横にある公園に運び、焼け残った木片、木の枝を集め、タンポポの花も入れて火葬にした。夜は火を消し、3日間かかって荼毘に付した。その隣では役所にあった米を炊き、お握りを作って被災者に配っていた。人を焼く火、独特の屍臭の中で、何の感情もなくお握りを口にしている人々、とても普通の感覚ではなかった。

 遺骨は近くに焼け残った器に入れて、職員一同で弔い、郷里からかけつけた両親にお渡しした。青年は27日に応召することになっていたが、「戦地でなく、役所で死ねただけでありがたい」といわれた両親の言葉に、何もいえなかったことを思い出す。

   

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