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zoom RSS 狩野光男画 東京大空襲

<<   作成日時 : 2009/08/26 06:24   >>

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    体験者の証言による連作画 狩野光男・画(東京大空襲訴訟を支援する会・提供)

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  NO.7 赤羽駅で機銃掃射により右手を奪われた 
         
          1945年8月3日

    
    体験証言者・豊村(野村)美恵子 19歳
 
 3月10日の東京大空襲で、建物強制疎開先洲崎で、父母姉弟の4人が猛火に追われ海に逃げ溺死した。

 8月3日勤務明けの帰路赤羽駅構内で運転席を標的にP51機が急降下し攻撃、電車が急発進し乗客7人が負 傷。私は右肘に被弾、右半身は真っ赤な血で染まった。意識は朦朧、すぐに目は見えなくなった。ホームに取り残され、このまま死ぬのか?戸板で運ばれていた時、「応急手当だ!」と完璧な処置をした軍人らしき人のお陰で、九死に一生の命を救われた。

 今78歳、右手切断の傷害を持つ不自由さ、辛さに堪えながらの人生だったが、ご縁があれば万感の思いを込めて厚くお礼を申し上げたい。政府は自国の戦災傷害者の人権と補償を一切認めません!

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   NO.8 聖路加病院の救護活動8ヵ月

      1945年1月〜45年8月

     
     体験証言者・安増武子 19歳
 
 聖路加女子専門学校(当時興健女子専門学校)報国隊として動員された。3月10日は千人以上の負傷者が運び込まれ、病院ロビー、礼拝堂、廊下続きの専門学校地下体育館まで、ぎっしり収容。空襲の都度、重傷者が担ぎこまれ、混乱状態の中を必死に看護に当たった。

 重度の火傷、破傷風に苦しむ人、傷口が化膿してうじ虫がわき、臭気とうめき声。戦争が続く限り休息はない。電力不足、水不足、薬品不足で野戦病院化した中を、8月まで、栄養失調と睡眠不足に苦しみながら激務に耐え抜いた。

 3・4年生は、医師、看護婦と共に救護班を組み、空襲の都度、都内各地、遠くは多摩地区まで出勤し、救護活動に当たった。また防空壕生活者の医療相談班としても活躍した。


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   NO.9 14歳で遺体収容に動員される
       
        1945年3月下旬

     体験証言者・星野ひろし 14歳
 
 私たち本所工業学校2年生は、昭和20年3月下旬、化学工業、実科工業、深川工業の生徒といっしょに、戦災死者の遺体収容に動員された。幹線道路の片づけは終わり、裏道に入るとまだ遺体が残されていた。警防団員の指導で学友と作業に入った。早速、押上周辺の遺体収容である。路上の黒焦げの遺体を鳶口で引っかけ、焼トタンに乗せ、太い針金で引きずって、錦糸公園の仮埋葬の穴まで運ぶ作業を続けた。

 多くの無残な遺体にもなれて1ヵ月も過ぎた頃、北十間川の、船底だけ川面に浮かべた残骸をみんなで鳶口を使って動かし、次々に浮上する遺体を片づけているとき、船底から、2歳ぐらいの女の子が母の髪をしっかりと握りしめ、生きているような遺体、痛ましい母親の姿に恐怖し、冥福を祈った。

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  NO.10 上野の浮浪児 1945年9月6日

     体験証言者・安藤健志 12歳
 
 学童疎開中に終戦となった。新潟県中頚城郡春日村五智まで父が迎えにきて、9月6日、上野駅に着いた。駅の地下道を歩いていると、沢山の子供たちが、裸足でボロボロの服を着、虚ろな目で人を見ていた。父が京成の切符を買いに行く間、ぼんやり立っていた弟(4年生)の手から、一人の少年が、お握りの包みをサッとかっぱらって素早く逃げていった。私はあっけにとられて見ていた。

 戦災で親を亡くし、家も焼けてしまった孤児たちは、世の中の厄介者扱いを受け、施設に収容された。世の人々は戦災孤児たちが上野の地下道に集まった最大の原因、元凶が何であったかを深く考えることなく、「浮浪児」とはき捨てるように言ったのである。

  

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