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zoom RSS 十年目に建った母子像

<<   作成日時 : 2010/05/08 06:26   >>

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「八万八千人が焼き殺されたというのに、なんにもないのですよ。」六十近いそのひとは、ひとことひとことを体の奥から探(さぐ)りだすように口にした。一九七二年の二月だった。古い石造りの図書館の前庭に、やわらかな冬日がさしていた。拾った小石をひとつずつ、ぽつりぽつりと落すように、そのひとは、東京空襲を語りはじめた。

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「生き残った人たちが建てたお地蔵さまや石碑はどの町にもあるのに、公の機関がつくったものは、ひとつもないのですよ。こんな部厚い江東区史のなかで、七頁しか割かれていないのですから。」

一九四五年、昭和二十年三月九日から十日にかけて東京下町一帯を焼き尽し、八万八千三百九十三人の命を奪った東京大空襲。橋本代志子さんはその空襲で両親と妹をなくした。その夜、暗い灯火の下ではあったけれど、久しぶりの家族の団欒があった。学童疎開先から卒業式のため帰宅していた小学校六年生の子どもたち。



その子にせめてもの夕食を整えた母親、祖父母。つかの間の安らぎのなかで眠りについた町の人たち。超低空飛行で侵入したアメリカのB29爆撃機は、無数の油脂焼夷弾を町の周辺にばらまいて、まず、炎の壁をつくった。閉じ込められ逃げ場を失った人々は、道の上で炎の風になぎ倒され炭になり、桃色のゴム人形になった。橋の上に追いつめられて燃える川にとびこみ川底から積み重なった。焼けトタンが舞い、リヤカーが空に吹きとばされた。その日、天皇の眠りを妨げまいという気づかいから、警報のサイレンは鳴らなかった。

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一九七二年三月、江東の空襲慰霊碑をつくるための請願が六百余の署名を添えて区議会に出された。一年後の五月八日、請願は全会一致で採択された。しかし「母子像」建設の予算が可決されたのは一九八一年三月だった。十年ー長すぎる時間のなかで何人もの人が世を去った。年老いた被災者のあきらめの声も生まれた。弱みにつけこむ「反共」の脅しもあった。平和運動を装おう妨害もあった。私たちはあきらめなかった。

一九八二年三月、区役所庁舎前に「母子像」は建った。除幕式で礼服姿の区長が挨拶し、バッジをつけた人たちや町会の役員たちが椅子席でそっくりかえっていた。ヘルメットの男たちが黒いビラをまきにきた。式典が終わって人びとが散ったあと、私たちは母子像の傍に集まった。あきらめなかった十年、その時間の重さだけがずっしりと胸にあった。

「その母子像をたてたのは、あなたたちですよ。」
ふりかえると、年老いた人たちの涙ぐんだ顔があった。
「ほんとに長い間、ありがとうございました。」ふかぶかと頭をさげられて声もなかった。沈丁花の蕾(つぼみ)がほころび初めた空に、私たちの鳩が飛んだ。
 (「私の昭和史」ー永井和子散文詩集)
  

 

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