満州っ子 平和をうたう

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zoom RSS 佐藤真子さんと「満州っ子」

<<   作成日時 : 2010/06/10 07:10   >>

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歌手の佐藤真子さんと出会ってからもう6年、いや、まだ6年と言ったほうがいいのでしょうか。それは2004年6月10日のこと。そこは浅草公会堂でした。ソプラノ歌手の歌唱に感動のあまり打ちのめされるような思いを抱きました。ブログ「満州っ子・平和をうたう」を書き込む動機もそこにありました。そのブログ・「テーマー佐藤真子」が百回を迎えました。この号は103回、新しい旅立ちになります。
▼民医連発行ー「いつでも元気」
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    赤い夕日と「別れ船」

   歌で平和への想い語り継ぐ

 「歌は語れ、台詞(せりふ)は歌え」と昭和の歌謡史の一時代を画した古賀政男が弟子たちに口癖のように、呟いていたといいます。
 いつも引きよせるようにして読みふけるのが民医連発行の月刊誌・「いつでも元気」です。年が明けてこの正月号を手にして目をみはりました。
 裏表紙の巻頭エッセイに、なんとあのソプラノ歌手・佐藤真子(さとうまさこ)さんの「歌・生きる力・そして平和」と題したエッセイが弾(はず)むような、笑みのこぼれる写真が添えられて掲載されているではないですか。

 「なんと」と表現したのは、彼女に注目しているのは私だけではない、だから少しばかりの嫉妬の想いが持ち上がってきたからです。昨年来「平和への想い」を心をこめて歌う、真子さんの虜(とりこ)になっていたからです。昨年(04年)、浅草公会堂で開かれた「関東甲信高齢者集会」でのこと。佐藤真子さんが歌い上げました。

 家に帰って高齢(とし)も顧(かえり)みず真子さんに長文のフアン・レターを書き綴っていました。後で友人にみせたら「お前、これ本当に出したのか」といわせるほどのパッショネイトなものでした。その一部を紹介します。
                         
 昨日、6月10日、「別れのブルース」と「リリー・マルレーン」を浅草公会堂で聴き、おもわず震(うる)えていました。ソプラノ歌手・佐藤真子さんの透(す)きとおり、しみいるようなピアノの弾(ひ)き語(かた)りに揺(ゆ)らぎました。

                        ◆          ◆
                          土浦海軍航空隊入隊式→
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 さまざまな想いがよみがえってきたのです。ちょうど六十年前の1944(昭和19)年12月、フィリピンのレイテ湾に神風特別攻撃隊の一員(学徒出陣・神島利則海軍中尉)として、突っ込んでいった当時21歳の兄の愛唱歌の一つが「別れのブルース」だったからです。淡谷のり子の大フアンでした。「アメリカと争(たたか)う奴がメリケン歌う」と自らを揶揄(やゆ)するようにギターを片手に低音で唸(うな)るように歌っていたものです。

 今にして思えば、彼は『別れ』という言葉に取りつかれていたようです。太平洋戦争も末期、自分のいきつく運命(さだめ)を予期していたのでしょうか。その頃(昭和15年)売れ出しはじめた、かのマドロス歌手・田端義夫のデビュー作・「別れ船」もしきりに歌っていました。

 それは1943(昭和18)年4月のころ。海軍飛行予備学生として、夏には土浦海軍航空隊に入隊を前にして、彼は生れ育ったあの赤い夕日の沈む満州に突如帰ってきました。ひそかに「別れの言葉」を伝えるためだったのでしょう。

 ころは春まだ浅く、所は大陸。そこは黄砂(こうさ)吹き下り、白銀(しろがね)の柔毛(やわげ)につつまれた楊柳(やんりゅう=ねこやなぎ)の花穂が舞い散る広遠の大地に、頬(ほほ)ずりするようにして過した三泊四日でした。

 最後の夜、おふくろと私たち弟妹を傍らに呼よせて、ギターを爪弾(つまびき)ながら「別れ船」の一節“♪名残つきない はてしない/別れ出船の かねがなる〜”と歌い、言いました。「どうだ、俺もやるもんだろう!」。

 
 大正3年、当時は娘の嫁入り先は親のいいなり。相手の写真を見せられるだけで嫁ぐのは茶飯事。おふくろもその一人。石川県金沢からひとり発(た)ち。神戸港から日満連絡船で、大連の埠頭(はとば)に降り立った17歳の少女(おふくろ)。そこには連(つ)れ合いになる男(親父)の姿は見当たりません。後で聞けば芸者を総上げして豪遊しており、使用人を出向かせていたといいます。

 関東軍のシベリア出兵に追従(ついしょう)、御用商人(ごようしょうにん)として放埓無頼(ほうらつぶらい)の限りをつくしていたといいます。その後出奔(しゅっぽん)して行方知れず、九人の子どもを女手一つで、しかも異国の地で育てあげた昭和の満州女傑といわれていた女、母・神島とみがけなげでした。

 1931(昭和6)年9月18日、あの柳条湖(りゅうじょうこ)事件の爆発音を奉天(現瀋陽)で直(じか)に聞いていたという母です。やどって三カ月、わたしは彼女の胎内に包まれていました。

 自分の「若(も)しも・・・」の場合、幼児を抱え独り立ちを決意した母親の行く末が念頭から離れられなかったのでしょうか、兄は末っ子の私を微笑みながらも諭すようでした。「お前は男だろうが・・・、わかるだろう。男は強いものだ。おふくろの傍から離れるな、頼むぞ! 後をしっかりとな・・・俺は征くしかないんだ」。

 夜通し語り尽し、翌日、何もなかったかのように振り返りもせず、去って行きました。彼が「弾き語り」を「遺(のこ)し言葉」に替えていたとは少しも気づかず、それが最後になりました。

 忘れもしない1945(昭和20)年8月9日、ソ連が参戦。ソ連軍戦車隊は怒涛(どとう)のようにソ満国境は黒竜江(ウスリー)を越え、南方方面に手勢を割かれていた斜陽(おちめ)の関東軍を急襲しました。かっては精鋭を誇った関東軍中枢はこのとき、ソ連軍侵入をいち早く察知しており、「転進」と称して、満州南部へ退却を決定していたのです。そして、軍と軍人・軍属および満鉄の家族だけを後退させたため、残された満蒙開拓団、民間人だけが悲惨な状態に陥った事は周知の事実です。
 
▼神島利則中尉の生家ー満州・公主嶺市
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 南満州在住の私たちは比較的安全だったといえ、それでも追われるように昼食時に、家財道具をそのままに雨降りしきる中、無蓋の貨物列車に乗り、南下、一周間後の8月15日の夜その事を聞きました。そこは北朝鮮の平壌(ピョンヤン)駅のホームでした。

 噂は広まっていました。「日本は負けたんだって・・・」ひそひそ声で交わす難民たちの会話に「黙れ!」と同乗の憲兵軍曹が軍刀を手元に引き寄せ、目を引きつらせます。周りは夜を通して「マンセイ! マンセイ!」と歓呼する朝鮮の群衆に囲まれていました。

 難民貨車生活半月。筆舌に尽くせない難局を母親は子ども二人の手を握り山口県・仙崎港に上陸したのは9月2日。駅はといえば屋根はトタンの凄絶な広島を通過。たどりついたのは母の実家、金沢市。親子三人だけでした。

 それからの私といえば、血は争えぬもの、かってはあ予科練を目指していた軍国少年が長ずるに及んで一変、学生運動(平和運動)に文字通り一直線、突っ込んでいったのです。

 ラードを練(ね)りこんだコッペパンに駅のホームの水で飢えをしのぎ、ガード下に寝所を探す凄まじい地下活動(非合法活動)のなかで、「ホッ」として酒でも入れば学生・仲間同士で歌ったなかの一つが「リリー・マルレーン」でした。反ナチズムへの心を想い入れて、かのマレーネ・デイートリッヒがヨーロッパ戦線などで歌いあげたことなどに思いを馳せていたものです。

 1950年代初頭の戦後情勢は、激変の一途をたどっていました。行く先を見失って「戦争とは」「民主主義とは」と侃侃諤々(かんかんがくがく)、夜を徹して甲論乙駁(こうろんおつばく)、酔い潰れていった青春時代が今でも鮮明に思いだされます。

                   2004年6月10日・浅草公会堂→

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 「黒い瞳」から始まり、「一本の鉛筆」とつづいた佐藤真子さんのしみいるような五曲、聞き惚れていました。青春時代の「来し方」が重なって、身動きできないほどの心の逍遥(しょうよう)を覚えていました。

 今は亡き双子の従姉妹(いとこ)は芸大の前身・上野の東京音楽学校の出。それぞれ声楽科とピアノ科で、戦後金沢で、弟がいないとあってか、可愛がってくれた思いでがよみがえり、彼女たちが芸大同窓の佐藤真子さんと生き写しのように思われて、いたたまれず「会」終了をまたず浅草公会堂を後にしていました。

 いま、ご案内いただいた原宿のアコスタジオでの第四回・佐藤真子「平和への想い」コンサートが待ち遠しいです。『別れ』がテーマのようです。それに与謝野晶子の歌とあってはなお更です。今年は60年(兄の)と百年(日露戦争の)の節目。そして私も古希をむかえました。

 来年は戦後60年です。あの悲惨な戦争の足音が急ピッチで聞えてくる今、『別れ』の二文字を、再び繰り返してはならないとの想いがつのります。

 「いつでも元気」の巻頭エッセイで佐藤真子さんは熱く語ります。
 「私はこれまで、『時代をうたい人びとの心を伝える』をテーマに、幾度となく戦争の中でうたわれた歌や反戦歌をうたってきました。それは、二度と戦争をくり返させないという思いを込めてうたってきました。しかし、今、それらの歌は『過去のもの』ではなくなってしまったのです」と続けます。

 ここまで読み通して胸がときめいてきました。胸の昂(たか)ぶりを抑えられません。「過去のもの」でなくなったのは「日本国憲法九条」も。それはあの戦争で亡くなった人たちの「伝え言葉」だと深く銘じます。


 だから、今こそ戦争の惨禍を若い世代に伝えねば、語りで、歌で、映像で、そして書きつづってーそれが残されたものの責任だと考えます。 永井(旧姓神島)至正

 

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