満州っ子 平和をうたう

アクセスカウンタ

zoom RSS 山田和夫描く「特攻映画」@

<<   作成日時 : 2011/06/01 04:23   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫

画像
 (一) 最初の特攻突入シーンに拍手!
 
 敗戦後半年たった1946年2月28日、戦後はじめて輸入されたアメリカ映画「春の序曲」と「キュリー夫人」が全国で公開された。配給は米占領軍が占領行政の一環として発足させた映画配給機関CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)。このCMPEは同時に本国のOWI(戦時情報局)が制作したニュース映画「ユナイテッド・ニュース」第一号を公開した。

 復員後、旧制高知高校一年に転入していた私は、この「ユナイテッド・ニュース」第一号ではじめて特攻記機の突入シーンを記録実写で見た。

 そのニュース映画は私たちがまったく知らなかった第二次世界大戦末期の様相をグローバルに見せた特集。そのすべてがいまでもまざまざと脳裏によみがえる。イタリアのミラノでは、反ナチ・パルチザンに捕えられたムッソリーニは愛人とともに処刑され、逆づりにされている。フイリッピンでは日本軍に虐殺された人たちの死体が掘り出される。ドイツの首都ベルリンでは、ライヒスターク(国会議事堂)の頂上に、ソ連兵が赤旗を掲げる。そして沖縄における日本軍特攻機の襲撃シーンが・・・。

 
画像
 それまで戦争中唯一のニュース映画(「日本ニュース」)では、1944年10月にはじまる特攻隊の出撃シーンは何度も映像にとらえられていた。しかし特攻機がどのような激しい米軍の対空砲火をくぐり抜け、その多くが空しく火だるまになって海中に墜(お)ち、ごくわずかの特攻機がようやく米艦に到達したーその実況を映像で見たことはなかった。私を含む観客たちはかたずを呑(の)んでスクリーンを見つめた。

 ほとんどの特攻機はすべて撃墜されたなかで、ただ一機(大型機で多分双発攻撃機「銀河」と思われる)だけ、弾幕をかいくぐって低空で目標の米空母に近づく、カメラはその一機を執拗(しつよう)に追い続ける。まだ墜ちない、観客席から拍手が起きた。そしてついにその一機は火を吹き、空母の舷側に突入した。そのとき観客はなぜ拍手をしたのか?

 戦争が終わってまだ半年、多くの国民は戦争の災禍に打ちひしがれ、その悲劇を呪いつつも、まだ戦争の本質ー日本の侵略戦争であった事実には、認識は到達していなかったし、ましてや感情的にはなお複雑な対米感情を残していた。だから日本の若者が絶対的な死を覚悟しながら、米空母に追いすがり、突入する姿に思わず拍手が起きたに違いない。

 その反応をいま愚かだと言うことは簡単だが、アジア・太平洋戦争が侵略であったことが大方の常識となった今日でさえ、戦争で肉親や恋人や友人を犠牲にした人びとは、彼らの死を「無駄死に」あるいは「犬死」と呼ばれることになお強い抵抗をおぼえる。「靖国」派が幅を利かし、特攻で死んだ若者たちを「輝いていた」「鮮烈な生きざま」と美化して恥じない「俺は、君のためにこそ死ににいく」のような石原慎太郎特攻映画が登場する基盤の一つは、このようなあとに残された人びとの無念と愛惜に根ざす無理からぬ情念ではないか。

 戦後日本ではじめてスクリーンに映しだされた特攻突入の凄絶(せいぜつ)な映像に、思わず拍手を送ったメンタリティはまだ生きているのだ。しかし私は同じ映像を見ていて涙は出たが、拍手する気にはならなかった。もし敗戦が二週間おそければ、あの特攻機を操った同年輩の若者と同じ運命を私自身がたどっていたからである。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
山田和夫描く「特攻映画」@ 満州っ子 平和をうたう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる