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zoom RSS 「満洲・公主嶺記録誌」 最終章に見る 

<<   作成日時 : 2015/11/23 06:15   >>

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「満洲・公主嶺 過ぎし40年の記録」の最終章(10章)の最終頁からの全文引用です。項目は「落日」「40年後」の二つ。600頁を超える大冊の締めくくりだけに、あの地への別離の想いが熱くつづられ、中国住民に対する謝意も行間にみてとられ、また「繰り返してはならない戦争」と繋ぎます。この項の記述は土屋洸子さんが担当したと聞きます。

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    10 敗戦・引き揚げ(昭和20年〜)

落 日 
 昭和21年夏、葫蘆島(ころとう)からの帰国者は、錦州の収容所を出て駅まで炎天下を歩き、葫蘆島行きの無蓋貨物列車に乗った。午後、葫蘆島に到着し、駅前広場で荷物の検査を受け、乗船した。船内に僅かな荷物を置くと続々甲板に出た。そして、夕方出港するとき「赤い夕日」を見た。それは公主嶺で見た赤い太陽と同じではあったが、再び見ることのできない壮大な落日であった。


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 そして、暮なずむ黒い大陸を見た。葛根廟、来民開拓団などの大惨事は幸いにして公主嶺にはなかったものの、一人ひとりが受けた敗戦の影響は大きい。身辺で人が死んでもなんとも感じなかった。人の生死は人にとって重いはずなのに、いたわりや思いやりを忘れた毎日で、今日と明日のことだけが、わが身のことだけが、心を占めていた。物質の損失よりも精神の荒廃があった。
 公主嶺に生まれ、長くあるいは短く住んだ日本人の、公主嶺での営みは終わった。土地や建物、その他のものが、本来そこに住むべき人に返された。日本での生活への不安はまだ考えまい。


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■40年後
 公主嶺を去ってから40年(本書の発行は昭和62年)が経った。公主嶺でのさまざまな思い出は今も懐かしい。しかし、あの公主嶺を思うとき、私たちの生活は日本人以外の民族の痛みの上に築かれていたことを知る。

 昭和6(1931)年9月18日の柳条湖事件(満州事変)から20年8月14日のポツダム宣言受諾(敗戦)および9月2日の連合国にたいする降伏文書調印によって終結した、10年以上(13年8カ月)続いた一連の戦争によって、中国その他の諸民族・諸地域の犠牲者は、大ざっぱにみて約2千万人という。日本人は外地で死亡した民間人約30万人、内地の戦災死亡者約50万人、軍人・軍属の犠牲者約230万人(内戦病死者、餓死者は約6割)、合計310万人であった。

   過去を振り返ってこそ 未来が語れる
 
 戦いは突然始まるものではなく、長い年月をかけて人が始めるものである。戦場の戦いが終わっても、人の心の傷は長く癒されない。愚かな戦争を再び繰り返してはならない。戦争の空しさを次代に語り伝えたい。過去に触れることなしに、未来は語れない。過去を冷静に振り返り、現在を知り、未来を考えたい。日本人がかかわった公主嶺の全てを記録する意味はここにある。</span>

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