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zoom RSS 2015年 「公主嶺会」での点描 終

<<   作成日時 : 2015/11/04 06:20   >>

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「『公主嶺会』での点描」、前回で終了のつもりだったが、ここにきて大きな「昭和の戦争秘話」が浮き上がってきたので続けなければならなくなった。それは、「会」が始まる前のロビーでの何気ない会話のひとコマがあったからだ、阿部孝雄さん(42回生)との平和論義だ。
▼阿部孝雄さん=10月16日公主嶺会で
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 公主嶺会が終わって数日たった日、世話人の土屋洸子さんから電話があった。「阿部孝雄さんのことが5日発刊の『週刊文春』に載っているそうよ、ぜひ見て!」と。あわてて本屋に走り買い求め、手にして昭和の戦争史がよみがえってきた。と同時にあの日のロビーで彼と交わした「平和論議」での僕の無礼な言葉遣いが思い出され、悔恨の念にかられていた。
 僕の兄が特攻死したことを知っていて、「私の親父もフイリピンで戦死ですよ、お兄さんはセブ島から発進ですか」。「セブ発レイテに向かったままです」と答える。彼はフィリピンについてつとに詳しく関心をしめす。
 やや間があって「平和ってなんですかね、僕は家族が一緒に暮らせることだと思いますよ」と、突然の月並みな言葉に「一人ぼっちの人はどうなんですか」と、やや揶揄するように応じていた僕。だが、彼にとっては「フイリピン」と「家族」は一途なライフワークであり続けていたのだ


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  阿部孝雄さん(78)の「秘話」を週刊文春が明かしてくれる。4ページに渡って「71年目のリアル『レイテ戦記』」と大書した副見出しの下、彼の父の死を尋ねる半生記が展開されている。
 父親は旧満州・陸軍公主嶺学校(大隊長や連隊長を養成する幹部学校)の教官・阿部利雄大尉。戦争末期フイりピン・レイテ作戦に派遣された68旅団(俗にいう星兵団)の一員として壮絶な戦闘で戦死。母は45年1月、孝雄さん(次男)ら4人の子を抱え、耐えがたい暮らしに追われ亡くなった。ここで長文だが「文春」大平 誠記者の記事を追ってみよう。


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      「ルーズベルトを捕虜にするんだ」 
 
 1944年6月18日、満洲・公主嶺市。日曜日に浴衣姿で娘と畑の手入れをしていた陸軍公主嶺学校教導団長、栗栖猛夫少将のもとに軍の伝令が訪れた。68旅団(通称「星兵団」)の創設とその3日前に米軍の上陸を許したサイパン島奪回の命が下ったのだ。41年に創設された公主嶺学校は全国からの選抜兵からなる精鋭集団と言われてきた。
 非常呼集をかけられた教官の阿部利雄大尉は歩兵126連隊第一大隊第二中隊長に任じられ、わずか2日間で公主嶺学校から191人の名簿を作成した。22日夜に大尉官舎に立ち寄った。「南方戦線に行く。ルーズベルト(当時の米大統領)を捕虜にするんだ」
 結核を患っていた妻と3人の子にそう告げると、酒の飲めない大尉は別れの饅頭をほおばり、官舎を後にした。
 もともとはサイパン奪回が目的だった68旅団だったが、12月7日、レイテ作戦において既に限界に近づいていた第1師団を救援するため、後発増援部隊として送り込まれた。レイテ島のリモン峠から西北30キロのサンイシドロから上陸した。
 しかし、68旅団6千300人の兵力は壊滅。記録も皆無に近い状態だった。同旅団については大岡昇平氏の『レイテ戦記』でもごくわずかしか触れられておらず、謎に包まれた兵団だ。


       阿部孝雄さんが執念で調べ上げた 
 
 これから紹介するのは、阿部大尉の次男、孝雄さん(78)が執念で調べ上げた秘話である。孝雄さんが言う。
 「満洲から引き揚げた東北の父の実家は家業が食品製造だったこともあり、結核の母は忌み嫌われて隔離され、終戦前の45年1月に息を引き取りました。その前の晩に幼い妹に乳房を吸わせながら、私の姉に『この子たちを頼む』と話していたのを覚えています。
 戦後はオヤジの兄貴に『世間というものがなければお前たちは孤児院に入れているところだ』と言われ、軍刀を始め父の形見も、遺族年金も全部取り上げられた。この伯父が亡くなった後に、伯父が隠し持っていた資料や手紙もポロポロ出てきました。この中隊の名簿もそうです。
 この名簿は非常に貴重です。191人の出身地は北海道から鹿児島までばらけていて、階級も様々。この学校は少佐中佐を教育する機関で、実兵を使って実弾を飛ばして大隊長や連隊長を養成するのが主目的でした。あとは対ソ戦の研究。名簿には本籍地から階級、認識番号、血液型まであって、不思議とAB型多いのは、どの血液型からでも輸血できることを考えてのことかもしれません」

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    レイテに上陸できたのは12月7日 
 
 サイパン奪回からレイテ増援に回った経緯について、孝雄さんはこう説明する。
 「星兵団は6月23日に公主嶺を出て釜山で輸送船を待機中にサイパン陥落が決定的になり、奪回を諦めて台湾に渡ったのです。これは沖縄に米軍が上陸した場合に、台湾からすぐに逆上陸する機動部隊としてのものでした」
しかし、レイテ島に米軍が上陸した3日目の10月22日、68旅団の追加増援が決定した。ただ輸送船不足も相まって、レイテに上陸できたのは12月7日だったという。
 「親戚筋に陸軍中将までなった人がいて、戦後、私が10歳ごろに会いました。オヤジのことを調べてもらったら、星兵団は上陸できなかったという見方だった。当時の陸軍の情報なんてそんなものでした」
 孝雄さんは苦労して山形大を卒業。大手メーカーを退職後に、友人に誘われレイテのツアーに参加した。
 「15年前の5月、牧野弘道さんが団長の慰霊ツアーだった。僕は星兵団が上陸したなんて思ってなかったのに、ビリヤバという場所で頭骸骨や九九式小銃、68師団の認識票をたくさん見たんです。そのときからです、調べようと思ったのは」


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       奇跡的に入手した家族写真

  それからはレイテに何度も足を運び、遺族を訪ね歩き、国会図書館や防衛研究所戦史研究センターに通いつめて埋もれた史料を見つけ出してきた。今や68旅団に関する研究では右に出る者がいなくなった。
 孝雄さんには大事な写真がある。戦後40年以上経ってから奇跡的に入手した。公主嶺時代の家族写真だ。
 「病床の母に代わって、オヤジの当番兵がよく料理番をしてくれました。兄と姉が国民学校に出かけると、幼い私と妹のために、フライパンを魔法のように操って象や亀の形をしたお菓子作ってくれた小柄で色黒の『ダイザブロウ』という兵隊さんです。秩父のお菓子屋さんの息子だと言っていました。その記憶だけを頼りに、何十年も休日の度に秩父のお菓子屋さんを訪ね歩きましたが、消息がつかめなかった。ところが89年、調査依頼をしていた埼玉県民相談室から『皆野町の福島代三郎さんではないでしょうか』と通知が届いたのです。妻を伴って訪ねると、弟さんが菓子店を継いでいました。福島代三郎曹長の墓標は『昭和20年7月17日、レイテ島ビリヤバで戦史』と父と同じものでした。その夜に写真が見つかったと連絡があり、数日後に届きました。父の出陣を前に家族全員で撮った最後の写真でした。私の妻や子が、初めて見る私の父母の笑顔でした」


追記俗に星兵団と言われた68旅団・陸軍公主嶺学校の教官だった阿部利雄陸軍大尉(阿部孝雄さんの父親)がフイリピン・レイテ島に上陸したのが昭和19(1944)年の12月7日という。公主嶺で生まれ育った神島利則海軍中尉(永井至正=旧姓・神島の実兄)が神風特攻隊の一員として、レイテ上空に飛び立ったのが同年の12月15日。もしかしたら地上の阿部大尉がゼロ戦搭乗の神島中尉の編隊を目視していたとしたら、その奇遇に思いが募るばかりだ。そして、その息子と弟が、戦後70年にして「公主嶺会」で触れ合うことが出来たことに二重の感慨が盛り上がってくる

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