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zoom RSS 与謝野晶子と満洲公主嶺 土屋洸子

<<   作成日時 : 2016/01/04 06:21   >>

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満鉄(南満洲鉄道株式会社)は毎年、学者、教育者、芸術家らに満洲、蒙古を見学させ、一種の宣伝活動を行っていた。歌人の島木赤彦、北原白秋、斉藤茂吉、童謡詩人の野口雨情、作家の志賀直哉、里美ク、画家の有島生馬、正宗徳三郎らが満洲を訪れ、与謝野寛・晶子夫妻も昭和3(1928)年5月3日から6月17日にかけて、満洲、内蒙古を旅行した。

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 与謝野は明治11(1878)年12月7日に現在の堺市に生まれ、昭和17(1942)年5月29日、63歳で亡くなった。明治、大正、昭和にかけての約40年間、短歌、詩、小説、戯曲、童話、評論、随筆、古典研究、古典現代語訳などに活躍した女流歌人の第一人者である。

 与謝野夫妻は満洲・内蒙古の紀行文を『満蒙遊記』として、大阪屋号書店から昭和5年5月に発表した。この本は寛が前書きと大連までを書き、5月16日大連を出発して金州、熊岳城、営口、大石橋、湯崗子、千山、療養、安東、五竜背、四平街、内蒙古、洮南、昂々渓、チチハル、嫩江、ハルビン、長春、吉林、長春、公主嶺、撫順、奉天、大連、旅順、大連の長い旅を『金州以北の記』として、晶子が書いた。


 公主嶺に立ち寄った日時の記載はないが、その日の夜奉天に入り、駅の楼上の大和ホテルに泊まり、翌日「へんな音」を聞く。その音こそ『満洲某重大事件』として新聞に取り上げられ、田中義一内閣が辞職する張作霖事件(昭和3年6月4日)の音であった。このことから、与謝野夫妻が公主嶺を訪れたのは昭和3年6月3日であることが分かる。
 少し長くなるが、『金州以北の記』から公主嶺の項を紹介する。漢字、かなづかいは『世界紀行文学全集第11巻中国編』(昭和34年5月修道社発行=38回生有川彬さん所蔵)の原文のまま。

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公主嶺 
 午前9時初の汽車で長春を立って10時半に公主嶺駅に下りたが、今日は1年1度の運動会があるので、駅長も助役も付属地の西端にある満鉄経営の大農事試験場を見たい為に下車したのであるが、馬車の用意が出来るまでの間、地理に慣れた加藤さんと付属地内の日本人街を散歩し、また運動会のある公園にも行って見た。日本流の紅白の幕の飾られた園内の桟敷には、重詰めや酒が運ばれて、祭りと芝居見物とを一所にしたような人出である。
 競技の合図に銃声伴れて応援と喝采の声が湧く。いろいろの飲食店が出ている。見物の邦人男女が皆晴装て続続と入園する。支那人の見物も少なくない。久しい冬から蘇った心地で此の晩春初夏の一日の遊楽に慰安を求める在留邦人の喜びをみて、私自身の心も躍るのであった。

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 駅へ引き返すと、馬車の用意が出来ていたので、農事試験場に向かった。車上で加藤さんは此地方が内蒙古の達爾窂(たるはん)王旗に属し、西北3里余の所に清朝の公主の墓があるので公主嶺の称がある。その公主は蒙古王に嫁する途中で病死したのである。此地は南北の分水嶺になっていて、海抜が最も高く南する水は遼河へ、北する水は松花江へ注ぐことなどを話された。
 農事試験場の門に達する並木道の楊柳が先ず美しかった。大正2年に創められた場内は総面積は213町歩あり、中には作物試験用地が42町、放牧地と飼料栽培地が165町を占めている。往路に見た熊岳城の試験場は是の分場である。満鉄は満蒙の将来の開発のため、猶此外に、鄭家屯、鳳凰城、得利村、海竜城、黒山屯、長春、遼陽、鉄嶺、湯崗子等に農事試験場や牧場を経営しているが、此地のが最も大きな規模を供えている。
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 生憎多数の場員が一人残らず運動会へ行っていられたので、何の説明をも聞くことが出来ないのに失望したが、併し一人の馬丁の支那人に案内せられて、目で見物し得るものだけは見るのであった。満鉄本社にいられる画家真山孝江治さんの画題に度度なった羊の群を、涯もない牧草の上で見ることは出来なかったが、幾棟もある小屋を開けて貰って雑多な羊を総べて見て廻った。支那の辞書の「羊」の部に沢山のむつかしい字のあるのを、実物に由って示される気がした。支那及び蒙古種の外に外国種との雑種も出来ているのである。豚にも多くの種類が飼育されていた。私達は牧草を分けて一列の大きな楊柳の蔭で小憩した。その楊柳も度々真山さんの絵に入ったものである。よく晴れた納戸色の空を牧草の原と疎らな楊柳の上に見て、煙草の煙が近く3人の前に靡くのは長閑であった。
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 運動会の花火も此処までは聞こえなかった。そこへ在留邦人の夫婦が子供を伴れながら、弁当らしい物を提げて、同じ木陰の少し離れた草の上へ座られたのは、運動会の人出を避けて此の曠潤な野天の日光に親む風雅な人人としてなつかしく感ぜられた。
 公主嶺駅へ引返して、駅の食堂で少し遅れた食事を取っていると、洮南で逢った森立名さんが四平街から汽車で着かれた。私達を此処まで迎えに来て、共に奉天ませ行って歌を詠もうとせられるのである。私達は洮南で約束して置いた事を果たされる森さんの御親切を喜んだ。午後2時4分の汽車は一行4人を奉天へ直行せしめた。

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 毎年6月ごろ、公主嶺神社の公園で町をあげての運動会があったことは、記念誌に記載していない。与謝野晶子の紀行文から思いがけない発見があったが、どんな競技が具体的に行われたのかなど、町の運動会のことを記憶している方はないだろうか。
 また、当日、農事試験場の人々は運動会に参加していたというが、与謝野夫妻一行と試験場で出会った人々はだれだろう。無理な話ではあるけれど。

           (公主嶺農事試験場文集3に掲載した記事)

追記】晶子が昭和の初期、夫の寛(鉄幹)とともに満蒙を旅して立ち寄ったここかしこで、歌を詠んでいる。満洲っ子(永井至正)の生まれ育った南満州の公主嶺でも、あの土地の風景を情感豊かに描写している。以下、昭和6年6月3日に詠んだ6首を紹介しよう。
 
 ・夏雲が 楡の大木のなす列に いとよく倣ふ 公主嶺かな
 ・公主嶺 豚舎に運ぶ水桶の 柳絮に追はれ 雲雀に突かる
 ・旅人が 来てよる楡の木の 下へゆるく寄りくる 牧草の波
 ・しづかなり 水ここにして 分かるると云う 高原の駅のひるすぎ
 ・まるき楡 円き柳の枝となる 羊飼はるる 牧場に立てば
 ・青白く 楡銭乾けりおと葉より 用なげなれど なまめしけれ

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