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zoom RSS 満洲に 祖父をたずねて何百里 補

<<   作成日時 : 2017/02/20 05:49   >>

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 戦時中、満洲公主嶺に住んでおられた義祖父の消息をたずねている長崎のKTさん。彼女の依頼を受けて私が「公主嶺会」の事務局長・土屋洸子さんに問い合わせていたところ、このほど以下のような詳細な返信が届きました。紹介します。
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  永井至正様      土屋洸子   
            2017年1月26日


 今朝、鹿児島の浜崎裕子さんから返事の電話をもらいました。
 嶺光学校(公学校の当初の名称)の先生は、雲雀先生(37回生雲雀君の父上)、佐藤先生、加賀谷先生(なくなったので奥さんはお兄さんと再婚した)の3人しか覚えていない。FT先生という名前は覚えていない。彼女の父は、昭和19年7月15日、38歳で亡くなった(私土屋は、告別式に行ったことを記憶している)。母は、父が亡くなったあと、中国人の女学校で教鞭をとっていた。2回ほど母の勤め先に行ったが、学校がどこにあったのか、覚えていない。終戦後、その学校の校長が見舞ってくれた。
 以上が浜埼さんからの返事です。
 5年か10年前であったら、当時のことを記憶している人がいたのですが、残念です。

 
 私の考えたこと:
 FT先生は、、大正8年生まれなら当時は28〜30歳?。根こそぎ動員は男子16〜60歳が対象でしたから、桑野校長が亡くなったあと、嶺光学校の校長になられて、根こそぎ動員で召集された、と考えられます。私の父親が勤務していた農事試験場でも、若い方が招集された、と聞いています。

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 朝鮮の「大田」の地名を記した手紙があったとのこと。昭和20年8月13日に公主嶺を出発した疎開列車は、2本ありました。「記念誌」(P457)に、『1本はお昼ごろ出発、平壌で終戦を知り、・・・大田に入り、・・・』とあります。『満鉄職員家族だけでなく、商店街の人たちもいたらしい・・・』とありますから木下町に住んでいた、ということを考え合わせると、Tさん母子がこれに当たることが十分考えられますね。この一節を誰から聞き取ったかは、忘れましたが、永井さんの記憶とほぼ一致します。
 8月13日の夕方公主嶺を出発した列車は、北朝鮮に留まりました。

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 「記念誌」P457にあるように、37回生の田口恵敏、山田和行、大塚文昭、平尾妙子さんたちが、1年以上苦労した北朝鮮生活を過ごすことになりました。鳩部隊、戦車隊、や農事試験場の家族たちです。
 記念誌の9、10章を担当したとき、特に10章は、人々の証言が必要でした。記憶はあいまいになっており、一つのことを書くために、10人以上の方々に記憶について問い合わせ、3人以上の人の記憶が一致することだけ、取り上げることにしました。日記などは、引き揚げのときに持ち帰れませんでしたから、正しい日時の特定が難しかったことを思い出します。
 「8月13日に2本の列車が出た」と分かったときの驚きは、今も覚えています。
 但し、出発の時間が分からないので、「列車が出た時の太陽の位置は?」と何人に問い合わせました。それで、お昼と夕方、と分かったのです。

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 以上のことから木下町のTさんは、昭和20年8月13日のお昼ごろ、公主嶺を引き揚げて、8月14日に平壌、14日以後大田、9月12日まで大田に留まり、13日日本に向けて出発、釜山から山口県仙崎に上陸された」と思われます。
 なお、Tさんが長崎師範学校の出身、とのこと。長崎大学に問い合わせられたら、卒業生名簿から何か分かるかもしれません。以前、片岡先生が千葉の出身、と分かつたので、千葉大学に問い合わせたことがありました。

 ブログの影響はすばらしいですね。伊藤 聖さんの奥様の伊藤幸子さんから「ブログを時々見ています。喜んでいます」と寒中見舞いのハガキをくださいました。
 浜崎さんから「神島さん(現永井)によろしく伝えて下さい」とのこと。
 寒さ厳しい折り、くれぐれもご自愛ください。

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