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zoom RSS 満洲公主嶺 敗戦から引き揚げ迄の記録 小松光治 @

<<   作成日時 : 2017/04/20 06:22   >>

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 手元に「小松メモ」と言っていい小冊子(B5版41ページ)がある。内容はあの時、満洲公主嶺にいた人々の「敗戦から引き揚げまでの苦難の軌跡」を丹念に追った記録集だ。街の重鎮、小松光治氏らがメモったものを集大成した歴史的な資料。今号よりシリーズでお送りする。

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       小松メモについて       土屋洸子
 
 1986(昭和61)年11月、公主嶺小学校第5回同窓会で、学校創立80周年記念誌を発行することが決まり、私は第9、10章(昭和16年〜、引き揚げるまで)を担当することになった。公主嶺の日本人は、1946(昭和21)年7月に引き揚げたが、書籍、ノート、写真などの携行は許されず、引き揚げ列車に乗車するときに厳しい荷物の検査があったので、原稿を執筆するための資料が皆無で、人々の記憶にたよるしかなかったから、毎日、関係者へ問い合わせの手紙を書いた。
 その時、終戦から引き揚げるまで、公主嶺日本人会会長を務めた小松光治氏の子息三郎さん(公主嶺小学校27回生)からある文書のコピーが送られてきた。それが「公主嶺日本人会設立ヨリ遺送修了迄ノ概況」で、記念誌に「小松光治のメモ」として、第10章に引用させていただいた。
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 この文書は、14行の便箋44ページに42項目にわたり、昭和20年8月9日のソ連参戦から、21年7月公主嶺を出発、日本に上陸するまでを克明に記述していて、表紙には小松氏の自筆で「元 満洲公主嶺日本人会長 同 日僑善後連絡所主任」とある。
 ソ連参戦後、市役所も警察も機能しない大混乱の中で、日本人を必死に守った人々がいた。ソ連軍、国府軍、共産軍や現地の人々が次々に日本人に係わってくる当時の様子は、日本人会の中枢にいた小松氏でなければ把握できなかっただろう。

 当時13歳のわたし(37回生)は、7歳の妹と21年7月に引き揚げたが、私の父親は、農事試験場再開のため技術者留用となり、母と下の妹2人の4人は、22年冬に帰国した。井本稔さん(39回生)の両親は病気残留となり、井本さんは弟と子どもだけで引き揚げた。「小松メモ」によれば、技術者留用になった人は41名、その家族76名、病気残留者46名、その家族82名、医師、看護婦、薬剤師、使役など残留者合計263名、、食料、住居などを手配するとある。当時子どもだった私は、自分の僅かな記憶だけが唯一記録できる内容だが、小松氏の文書には人数、費用などの数字が記されていて、第1級の資料であった。
 「小松メモ」は1昨年の2015(平成27)年に、戸井義衛さん(33回生)によって、読みやすく活字化された。一人の日本人が残した記録は、当時の貴重な記録として、歴史の中に永く留まって欲しいと思う。
(つづく)

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