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zoom RSS 「あのころ」 伊藤聖さん語る 満洲・公主嶺F

<<   作成日時 : 2017/04/06 07:25   >>

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 「こみーどーりーのー」と歌いだすと、まぶたにあの木々の緑のあふれた公主嶺の街がひろがってくる。農事試験場のポプラ並木、畜産のニレ、北一条通りのアカシア、ロシア人墓地のヤナギ、まこと公主嶺は「濃緑の」街であった。毎朝、新校舎の講堂で、意味もよくわからずに声を張りあげたおかげで、メロディーはいまになお鮮明である。私はその美しい曲の校歌が大好きであった。

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    「あのころ」  校  歌   伊藤 聖

 いつか荒川明夫君(40回生)と雑談していたとき「公主嶺の校歌は、いわゆる校歌らしくない歌でしたね」と指摘されたことがある。荒川君は専門家だから、「濃緑の」が校歌らしくないメロディーをもっていることには早くから気がついていたのだろう。
 公主嶺小学校校歌の作曲者、園山民平氏(1887ー1955)は「満州楽壇の父」といわれた人であった。島根県の出身で、明治44(1911)年東京音楽学校を卒業、音楽教育に新理論をうちたて、大正11(1922)年渡満。大連音楽学校で教鞭をとるかたわら、作曲活動を続け、童謡、歌曲などに数千曲を残された。それらはいずれも「満州色」豊なもので、私たちが習った「満州小学唱歌」もそのほとんどが園山民平作曲だった。

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 南満州教科書編輯部で一緒に仕事をした石森延男氏は「園山民平さん もしあなたがあのころいなかったら、満州の草も木もロバも娘々祭もコウリャンも豚もーーこれほどあざやかにわたしたちの心に残ってはいないだろう」(讃光社刊「園山民平作曲集」)と書いておられる。
 作詞者の政本勇氏(1893−1964)は香川県出身で、大連の学校で先生をしていた人。当時の公主嶺小学校の佐藤真一校長の香川師範の先輩にあたり、同校長から依頼をうけて作詞したものらしい。石森氏に師事して短歌や詩をみてもらっていたそうで、「校歌歌詞の出来たとき秋本君から見せられ、何か気づいたところを話したようにも思いますが、なにさま古いことなのではっきりしません」と石森氏はいわれている。
 歌詞は小学校の校歌としてはかなりむずかしく「開けゆく国ほがら われどちの競いの庭」などというところは、私たちの理解を越えていた。私は長い間「割れた土地がどうして校庭になったのだろう」と思ったりしていた。

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 「清々し学舎」とあるように、この校歌は昭和12(1937)年に新校舎が完成したものを記念してつくられた。もっとも校歌そのものは、新校舎が一部できたその前年には作られていて、卒業間近い5,6年生は新校舎でこの新しい校歌を教わったという。
 それまでは「嵐に冴ゆる」という旧校歌が歌われていたらしいが、私の記憶にはない。私が入学したのは駅のすぐ前の旧校舎で、2年生のときまでそこで授業をうけた。朝礼も毎朝あったはずだが、校歌斉唱はなかったようだ。もしも毎朝歌ったのなら、いくら低学年だったとしても覚えているはずだからである。
 とまれ、私は「満州のうた」のひとつとして、緑の大陸から生まれた校歌をもらえたのを思っている。その後、多くの校歌を聞き、また歌うこともあったが、この曲にまさる校歌に背合うことはなかった。

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