満州っ子 平和をうたう

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zoom RSS 心のファイル 永井至正

<<   作成日時 : 2009/01/22 08:29   >>

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「兄・利則が戦死した日、清澄庭園で結婚式を挙げた日、長女亜子が生まれた日が12月15日なんです」永井至正さんは語る。1932(昭和7)年旧南満州(現中国東北部)・公主嶺市生まれ、9人兄姉の末っ子。昭和の始め世界大恐慌は日本にも波及し、銀行の倒産、工場閉鎖、大量の失業者を生み、農村では娘の身売りまで起きていた。(木村清子記)

  苦境打開として海外侵略、日本は破局の道へ

こうした中で苦境打開に日本は、富国強兵、海外侵略を一気に推し進める。1931年いわゆる満州事変を引き起こした日本は、軍を全面展開、泥沼の日中戦争に。そして、1941年12月8日、遂にパールハーバーを奇襲攻撃、太平洋戦争に突入した。しかし、翌17年にはミゥドウエーで大敗北、ガタヌカナル退却、アッツ、サイパン島など玉砕など次々敗北の道をたどった。永井さんはいわゆる15年戦争を子どもながらにも外地での目撃者だった。

  正義の戦争と思い込まされて青年たちは逝った

永井さんは、ビデオ・「昭和の戦争」(計8巻)で当時の歴史を思い起こしながら語る。「特攻隊は武器・弾薬の乏しくなった日本軍の最後の手段でした。兄・神島利則(学徒出陣・当時海軍中尉、21歳)は、神風特別攻撃隊に志願させられ、第七金剛隊の一員としてフィリピン・セブ基地から爆装のゼロ戦に乗り、レイテ湾の米機動部隊を攻撃、帰ってきませんでした」と語る。

「兄の記録は、戦後同期生の手で編集、発刊した「雲流るる果てに』におさめられました。ところが昨年(2001年)『歴史教科書』が問題になったとき、この特攻隊員の遺書が巧妙に引用されていると聞いて怒り心頭です。政府は戦争を知らな今の子どもたちに、日本の戦争は正義の戦争だった、『自存自衛』と『アジア開放』のための聖戦だったと教えたいのでしょう。私の兄を含めて多くの青年たちが、正義の戦争と信じこまされて貴重な生命を失ったその苦しみの慟哭ともいうべき遺書を使うなんて許せません」と語る。

  自らもあの15年戦争を目撃、昭和史の目撃者

1945年8月9日、「本日をもって本校を閉校とする」と新京(現長春)第一中学校の校長が在校生徒を講堂に集めて宣言した。永井さんは当時旧制中学一年生。ソ連参戦で市内は大混乱。「続々南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊、といっても南方に部隊をとられ当時の関東軍は現地召集の老年兵。僕も家族三人とかろうじて飛び乗ることができました。関東軍は、民間人を残し、軍関係者を最優先させて転進させたんです」と語る。

  平和こそ福祉を守る道、若者たちに伝えねば

永井さんは二年前、年金者組合の「綱領」をみてためらいなく入会を決意する。綱領には「日本国憲法は、全ての国民が個人として尊ばれ、平和のうちに生存する権利を保障しています。私たち年金者組合はこの憲法の理念を守り発展させ、より自由により豊かに生きて行ける社会をめざします・・・」と。「平和こそ福祉を守る道、若者たちに語りついでいかなければ!」と永井さんは言います。

画像
〔注〕左写真は永井さんが卒業した小学校。当時正式には「満州国在満公主嶺国民学校」といい、現中国吉林省公主嶺街、鉄道(満鉄)北にあった。広大な土地に煉瓦作りの二階建て。教室は30教室ほどの校舎で華麗な建物。
真中の煙突は暖房(冬季は零下20度)設備が整っていた。中国人の小学校とは雲泥の差を誇っていた。校歌は今も覚えている。♪「濃緑(こみどり)の 野は晴れて/黎明(あけ)の空 光のどか/すがすがし 学舎(まなびや) 公主嶺/我等 日々 ここに集ひ学ぶ/高き教へ守れ/素直(すなお)に のびやかに」 昭和20年3月中ごろの卒業式には校歌と別れを惜しんで『海ゆかば』を歌った。そのころ東京では大空襲があり、10万人もの人が死んでいったとは少しも知らず。あれから64年。

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