満州っ子 平和をうたう

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<<   作成日時 : 2009/01/27 06:37   >>

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三月、八月は、日本人ならば忘れてはならない月である。三月は東京大空襲。八月は原爆。その業火と閃光二つををくぐりぬけた八十路をこえて、なお矍鑠(かくしゃく)として稀有な体験を語り続けている人が東京・江東区にいらっしゃる。その人の名は平野合歓之介さん。(「江東・年金」機関紙ー佐藤睦郎記)

  東京大空襲と広島の原爆被害者だった

 昭和20年3月10日は江東区三好の同潤会アパートにいた。業火を逃れ住民の奮闘と知恵でなんとか生き延びた。広島は、兵役での入営であった。しかも、入営は八月一日だったので、六日目の惨劇ということになる。「私にとっては、広島そのものが何も知らない土地であったのだ」という。

 八月五日の夜、広島は大規模な空襲にみまわれた。兵士として真夜中までの任務があって就寝が遅れた。そんな日の翌朝の起床時刻は一時間遅くされるのだ。運命の原爆投下時に弊社の中にいたのが生死を分けることになった。いつもの通りの起床だったら魔の時刻には外に出て仕事をしていただろう。爆心地カラ1.5キロの兵舎の戸外にいたら、今の私はいなかっただろう。と、数奇な運命に思いをはせている言葉だった。

 爆風で弊社はつぶれ、多数の仲間たちが大変な被害を受けたが「私はとっさにテーブルの下に身をひそめ奇跡的に難を逃れた」のだという。八月七日は、傷病兵を陸軍病院へ連れて行くのが任務だった。爆心地から5キロ、放射能から少し離れていた。さらに軍務は、小郡でという事で放射能の真っただ中で過ごさなかったのは、幸運としかいいようがなかった。

 九月二十七日、除隊復員。「急性症状」で下痢。父の故郷岡山の農家で静養。身も心もあらわれた。飢えていた。農家の一ヵ月で下痢も治まった。食べて治る不思議だった。

  江友会事務局長として16年

 江東区原爆被害者の会が正式な団体名である。事務局長として平和運動一筋にがんばってきたが今年、若手にバトンたっちした。東友会理事・請願部長の役職は、今年一年の任期が残っているという。江友会、東友会とも分かりにくい略称だがと問う。原爆被害者(放射能被害)への差別問題があって・・・と暗い顔をされる。去る四日「41人全員原爆症と認定」という広島地裁による「全面勝訴」の判決後も、国の対応には何一つ誠意がないとため息をついた。

  地球の最後を迎えぬために

 平野さんは上記のようなメッセージを昨年の夏、本紙によせた。「原爆は六千度の大火球となり、爆風と共に熱線と放射能は総ての物を焼き、破壊した。今、原爆は世界に三万発いじょうあるといわれ、爆発させればおそらく、人類は死滅し全生物も絶滅、水も空気も汚染され、地球の最後となるでしょう。私たちは、核兵器廃絶を訴え運動をしてきた」「原爆と人間展」が今年も開催された。

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