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zoom RSS 今もかなでる「琴」の追憶

<<   作成日時 : 2009/02/08 08:18   >>

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大滝 絹子さんー長時間にわたる訪問を終えての帰りは、そぼふる雨になっていました。バス停の列にいると「どうぞ、ご一緒に」と傘を差しだしてくれる女性がいました。そんなこと初めてなので驚いていると、ニッコリ微笑んで「雨もいいんです。アジサイなんかとてもいいのよ」と。ちょっと前までの緊張がその一言ですっかりほぐれました。思いがけない「相合い傘」(?)が「ほっ」とさせてくれたのかも。

  母の背中で「母ちゃん空襲」と言っていた

 大滝絹子さんを訪ねて、とぎれることなく三時間もよどみなく、時おり身振り手振りで話がはずみます。戦争末期の一月一日、東京市蒲田区生まれ、(三人姉妹の末っ子)厳しい戦局をのがれて茨城県取出町の伯父夫婦の家に親子五人で「転がり込んだ」といいます。「終戦の年、まだ三歳にもならない頃、母さんにおんぶされて薪を拾っている最中にサイレンが鳴ると私が「母ちゃん空襲」と言っていたと母に何回も聞かされていました」とも。

 戦後日本人なら誰しもが体験したひどい食料事情に話が及んで「私、今でも好きになれないのはさつま芋です」と肩をすくめるように、ひとしきりです。朝鮮戦争など昭和二十年代の話題にもすすみました。

  12歳頃より琴の音色に惹かれいつか私も

 県立取手第二高等学校を卒業した大滝絹子さんは、東京の生命保険会社に就職しました。それからどんな道をたどったのか、大滝さんならではです。この訪問の前にきちんと準備されていました。手記を手渡されましたので引用します。

 「12歳頃より琴の音色に惹かれいつか私も習いたいと思いつづけていたので、次姉からある日、東京で募集していることを聞き、職場の人と二人で東京労音民族音楽教室の琴教室に通い始めた。(中略)初級、中級、上級を終了した後、民族音楽研究室に入り助手に。労働組合や盆踊りに招かれた時は、仕事が終わってすぐ会場に行き演奏した」と。

  多くの人に感謝とお礼の言葉残して逝った

 研修中のある日「うまくなったな!」と師匠格の男性が絹子さんにそう言ったといいます。その方の名前は大滝 明さんでした。そうです。プロポーズだったのです。明さんのことは当時「たきさん」と呼んでいたといいます。インタビューは「たきさん」の思いで話で持ちこり。太鼓、カメラ、ビデオの名手だったそうですが、92年惜しまれて亡くなりました。「告知」を受けた後、たんたんとして、多くの人に感謝とお礼の言葉をのこして。52歳の若さで、「太く短い人生でした」と大滝さんは言います。

 「いっしょに撮ったビデオは時どき見るのですね」と聞いたら、「いいえ」といいます。「どうしてです?」と目を見張ったら、「はい、いつでも逢え(みられ)ますから・・・」と言い、ほんのり、はにかむ。
画像
 常に、おおらか、てきぱき、きっちりの大滝絹子さん、いまいろんなところで頑張っています。三人の娘さんをしっかり育てあげて・・・。バスを降りたら雨はやみ、夕方の西の空がすこし明るくなっていました。  (訪問記・永井至正)

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