中村メイコさんと特攻隊員

「奈良には文化財がいっぱいあるから爆撃はないだろう」と考え、疎開先を決めた父のもくろみは見事に当たりました。すぐそばの大阪にはポンポン空襲があるのですが、私たちが暮らす富雄村はまだまだのどか。つらいといえばつらいけれど、それほど悲惨でもない日々を私は過ごしていました。

  特攻隊の慰問に行くなんて大反対だった反戦の父
 
 「特攻隊の慰問に行ってもらえませんか」そんな依頼が軍から舞い込んだのは、敗色も濃厚となった昭和二十年に入ってからのことでした。反戦主義の父は、幼い私を特攻隊の慰問に行かせるなんて大反対。対して、感激屋の母は、むしろ「お役に立つことなら」といったふうでした。いずれにしても、これは軍からの命令。他の仕事と違い、断ることは許されませんでした。

  若くて美人の女性ではなくメイコちゃんだけにして

 私の他に、若い女優さんとして美佐子姉ちゃまも慰問団に加入。「軍属待遇」だった私たちは戦闘機に乗せられ、戦地へと向かいました。飛行機はどこから飛び立ち、どこに降り立ったのか。行き先はアッツ島か。はたまたトラック島か。軍事機密保持という理由で、私たちはずっと目隠しをされており、行動はすべて軍の監視下にありました。内地の鹿児島・知覧も含めて、少なくとも六回は慰問に出かけたでしょうか。そのうち、「若くて美しい清水美佐子さんはいい、メイコちゃんだけにしてください」という注文が入りました。

  ハイネやリルケの詩を持っていた青年たち

 特攻隊の青年といえば、学徒出陣で召集されてきた、いわば昨日まで大学生だった人たち。ハイネやリルケの詩集を持っているような、インテリさんばかりです。明日は死ぬ。そんなときに、きれいな女性を見ても虚しくなるだけで、慰めにもならない。御馳走を見せられても食欲もない。自らのさだめを思い、無表情になっていく彼らを奮い立たせるには、小さな子どもを送り込むのが一番効果的だったのです。

  <この子たちの未来のために、僕たちは今、死んでいくのだ>
 
 結果的に、とても悲しい戦争の道具にされた私。いいことをしたのか。悪いことをしたのか。大人になってすべてを聞かされた時、私は珍しくシリアスになって考え込み、深く落ち込みました。
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〔注〕①東京新聞・夕刊一面に掲載されている著名人の半生をつづるコラム。題して『この道』。中村メイコさんのは数年前にほぼ100回にわたって載せられ好評を博した。本稿はその39回目のもの。②戦争初期、特攻隊員たちは「女優はもういい、子どもを・・・」と言っていたものが、敗色濃厚のころには「娘や妹、弟を思い出すと操縦桿をにぎれない。子どもは連れてこないでくれ」と涙顔になったという。③当時特攻基地には多くの女優が慰問団として軍の命令で派遣された。田中絹代、淡谷のり子、森光子、高峰三枝子、高峰秀子などなど。戦後、彼女たちは「あんな辛いことはなかった」と異口同音に顔を曇らせながら語っている。

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