赤いランドセルも灰になった
小学校入学を前に、父は赤いランドセルを買ってくれた。背負って学校に行くのを楽しみにしていたランドセルは、東京大空襲で持ち出すことができず家とともに灰になった。
1945年3月9日真夜中、空から焼夷弾が降り注いだ。戦友の遺骨を持って戦地から丁度帰って来た父は、火の手が上がり、区役所の書類の疎開を頼まれ出かけてしまった。幼い桐生さんは妹を背負い、母は弟の手を引き火の中を逃げた。風が火を呼び、火が風を呼ぶ。土手に向かって火が吹きあげる。
布団にもぐって火をさけることができた。朝になり一面焼け野原になった街、電信柱と思ったら人間の丸焦げが横たわっている。父は再び戦地へ、残された栃木の祖母の家に疎開、板の間の部屋で暮らした。

戦争は優しい父を変えた
敗戦まもなく、父は復員、栃木県・佐野の疎開先にリヤカーで迎えに来てくれ、家族4人を東京まで乗せてきてくれた。戦地で何があったか詳しい話を聞くことができなかったが、終戦前は九州にいて原爆にもあったという。酒も煙草もやらず家族に優しかった父は人が変わった。
食糧不足であかざやすかんぽ、未だ実がついたばかりのカボチャや野草など何でも食べた。家族がおから入りのスイトンで飢えをしのいでいたころ、父だけは当然のように白いご飯を食べていた。
朝四時から夜八時まで沖仲士の仕事がきついのだろうか、母を殴る、蹴るは日常茶飯事だった。「あの優しかった父のあまりの変貌に私たち姉弟は口もきけなかった」という。
中学を卒業してから印刷会社、プラスチック工場で働いた。歌声サークルに参加、そして民主運動に。「戦争のない世の中を子どもたちに贈りたい」がモットー。
この記事へのコメント
山路 独
ご意見ご提案49/「京都教育大レイプ事件「学長 犯人が可哀想!(゜Д゜;)?」」について
http://miscellaneous-notes.at.webry.info/200906/article_7.html
是非ご確認を。