
軍国少年の作文
1928年2月14日、大田区・久が原で生まれた。「高橋大将のように殺されると(2・26事件)いやなので、中将くらいでやめておきます」小学校二年の時の作文だそうである。1942年(旧制中2)陸軍幼年学校受験。体格検査ではねられる。
1944年学徒勤労動員中に胃病になる。1945年7月1日、航空士官学校出の兄が、沖縄偵察飛行の帰路、熊本上空で敵機に撃墜され戦死した。母の嘆きようは、今でも忘れられない。疎開中に久が原の家は空襲で焼失した。焼け跡のバラックで母は死んだ。1948年、終戦直後の混乱の中でのことである。その後、川崎の大工場(昭和電線)に就職したがレッドパージでクビ。
共産党を知った
総選挙の演説で「戦争に命をかけて闘った人々と政党の存在」を知り感動。1951年、朝鮮戦争反対などのビラをまいたということでMPにつかまるも、日米講和条約発効で訴追が免除された。レッドパージが1950年だから、戦後史をそのまま生きてきた貴重な人生体験者である。
レッドパージの後七年間共産党の専従活動。その後港区でガリ版印刷からスタートして2000年まで印刷業を営む。その間、港区民主商工会長八年。うたごえ運動で清子さん(前江東年金事務局長)と知り合い結婚。江東区に五十年暮らす。

民主運動幅広く
年金者組合、国民救援会、江東平和委員会代表、消費税をなくす江東の会代表世話人、東京大空襲を支援する会役員など。平和、生活と民主。生きるために大切な運動に関わっている。青年時代、就職四年間の年金支給もれの回復手続き終わる。だけど未だにお金は来ないと怒る。
趣味は山歩き、読書(推理小説)、うたなど。趣味といっては何だが街角演説がすき。もっとやりたい。子ども時代、内にこもり話すのが苦手だったのに、不思議である。
大病を克服して、あと二十年は生きぬける気持ちがしている。百歳まで生きるというから何ともすごい人である。
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