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<<   作成日時 : 2010/01/24 06:28   >>

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宅島徳光 [たくしま・とくみつ]慶応義塾大学ー福岡県出身 昭和20年4月19日、松島航空隊にて殉職、海軍中尉・24歳 「注」一式陸攻搭乗、金華山沖で事故。(「雲流るる果てに」 (66〜94頁)
  ▼遺稿「くちなしの花」
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   くちなしの花

明けくれの日の移ろひに、秋は色濃く、
たらちねの母の病深み、子等の見つ、
霜枯れの落葉の如く
みまかり給ひしかなしさに、
かなしさは過ぎし日のもの
よろこびは来る日のものとさかしくも
思ひなしては見つれど
過ぎし日の悲しみ今も悲しく、


 「遠藤実と学徒兵の遺言」
 (リンクしてあります)

  三月十日  (注・昭和19年)

 人間の感情は、その営む生活の状態や、種類や、出来事に依って、明らかに変化する。私も軍隊の生活に入って、そして母の不幸に出合ってから殊に鮮明な活々とした感情と至純な物事に感じ易い性格を復活したやうに思へる。

 訪れた天草の一日に私共に与えられた島民の心からなる敬意と、厚遇と、温情とは、少なからず私に深い感動を覚えさせた。(分に過ぎたもてなしに)云ひ知れぬ面映さと、悦びを感じ、或る時はまた、そっと進められた肩越しの接待の湯茶の一杯に、私は優しい人の情と、そして母の親しみを思はないでは居られなかった。私は思はず涙した。母を失って未だ日浅い私の心に、このやうな情の慈雨は云ふ方なく有難くなつかしいものであった。同じ悲しみと、同じ心を持つ人こそ、このやうな細い情緒の糸に共鳴してくれるであらうことを信ずる。

  
  三月二十日

 私の誕生日だった。すっかり忘れてゐた。昨年の誕生日にはどうしてゐたのだらう。母もまだ元気だった。上京のスケジュールなど組んで、母は楽しみにしてゐたころだったと思ふ。全く「年々歳々花相似たり、年々歳々ひと同じからず」である。私の誕生日には、母は必ず何かこしらへてくれてゐた。大好きなあん餅や、それでなくとも豆ごはんを炊いてくれたり・・・・・・それを思ふと実に寂しい。あのような優しみ母以外の人に感ずることの出来ないものである。今更私はどうしてもっと母を大切にしなかったのだらうかと、それが悔まれて仕方がない。小さな弟達も可哀そうだ。私の経験したこのやうな時代は、小さな弟達には恵まれない。

 何を回顧し、何を追想しても、私の頭から母は離れない。母、母、母、何歳になっても、何をしてゐても、子供に一番大切なものは母である。

  
  三月二十一日

 分隊点検あり。

 (愛人よりの便りに接して)
 
 昨夕、君の元気な便りを落手した。やはりうれしい。たくましい大樹も、小さなわくら葉の時代に受けた小さな傷は、何時迄も失ふ事がないだらう。青春の日に心を射た小さな優しい心の傷も、同様に忘れ難いものである。

 現在の生活には愛といふやうな思弁は微塵ももつべきではない。緊張の日々は、激しく廻る車輪が、わだちの土を四周へはね跳すやうに、少しでも浪漫的な思考や感情は、勢いよく飛散せしめる。ただかうして静かに日記を書く時間のみが、君の心に通ずる唯一の時である。私はかって君に、自分の心の記録を書き残して置く事を約束した。そして今迄そのやうな気分と余裕を持つことが出来なかった。けれども、幸ひ約束だけは忘れてゐなかったことに、幾分なりと私の誠実を認めてくれるなら幸ひだ。自分の思想を表現することに馴れてゐない私は、いつも筆の渋滞に腹立たしさを感ずる。

 君はよく私のことを分らないと云った。尤も私の言葉も誠意に欠けた冷静なものであったかも知れない。常に一緒にゐるといふことの幸福な感情が、我儘な気分を生んだのであらう。離れてゐることは、その意味で良いことのやうである。他の凡ゆる心の禁制と同様に、それは、親しみと尊敬の至純な情緒を培ってくれる。君は私を子供の頃程は信頼してゐないかも知れぬ。若しさうだとしたら、私は実に淋しい。

 
 けれども私は君を信じよう。しかし、もうこのやうにして日記に自分の心を託して君に与へることより外に、私の気持ちを表現することが出来ない。それに私の前途は全くの未知だ。ジイドの書いたやうに、将来は悉く神の縄張りに属してゐる。私自身の未来を私は予知することが出来ない。そして、私は私であっても、私の私ではない。このことは、賢明な君は良く理解してくれると信ずる。最早、私は君一人を愛すること以上に、日本を、そして君を含めた日本の人々を愛してゐる。このやうな書いたからと云って、私は決して思ひ上った怒号的なジンゴーイズムに陥ってゐるわけではない。在学当時、私の心に育んだ憂国の理智を、愛国の情に代へたまでのことである。このことは、君には話したことがあると思ふ。君に会へる日はもう当分ないだらう。或は永久にないかも知れない。

 手向けの花にくちなしを約束しておいてよかったと思ってゐる。
 あの花は母も好きだった・・・・・・・・・。

 
 (私の可愛い弟達に)
 冬の寒い忍従の時を過した飛行場の芝生が、もう大分青い芽をふき始めた。緑の新しい香りは常に希望と若さを表示する。お前達のお母様も、この緑の色が好きだった。私の買って貰ったスウェーターも、緑色の物が多かった。緑の色に、私は何時もお母様を思ひ出す。

 何時でもお母様を思ふ時は、青葉のしたゝる草樹をじっと見つめるが良い。お母様のお前達に対する愛がどんなものであったかを、少し書き留めて置こう。

 厳格な家風の中にあって、お母様は何時でもじっと坐ってゐる余裕は殆んどなかった。私の思ひ出すお母様は、いつも甲斐々々しく立ち働いて居られる姿ばかりである。

 一つはこのやうな多忙さは、古い九州の習慣でもある。男尊女卑の思想から、食事すらも一緒にたべる事は稀であった。一つの成長した心の中に、食卓の和やかさを思ひ浮かべる事が出来ないのは残念でならない。そのやうな多忙の中にあっても、お前達に破れた着物や、下着や、靴下など、一日すら着せられた事はない。病気が進んで起きられないようになってからも、お前達に不自由のないやうに新らしい靴下など充分に買って置かれた事など思ふと、私は母性の愛の深さに涙せずには居られない。

 間もなく巡検ラッパが鳴る。また日を改めてお前達に書こう。


   ▼櫻ほど朗らかではないが
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  三月二十二日

 椿、椿、農村の垣根に真赤な椿が春を招いてゐる。静かな流れが、そのあでやかな姿を映してゐる。本当に静かだ。

 椿は、櫻ほど朗らかではない。そして繊細でもない。けれども櫻よりも、もっと強烈に、そしてもっと我儘に、自我を主張するこの花が私は好きだ。かってこの椿に、紅い椿の花に似た人がゐた。そして椿のやうに我儘で、椿のやうに悧巧であった。

  *           *

 母の里の裏の山では、椿が盛りだった。母も達者でゐた頃だったし、春は私にとっても、この上なく楽しい季節だった。小山の頂に登ると、椿の花越しに遠い街が小さく見えた。

 小川の流れも美しかった。静かな山の陽を一杯に受けた椿の花から花へと、私は蜂のやうに蜜を集めて歩いたこともある。蜜はほんのりと甘く青春の味がした。母が居てくれた夕餉は静かで平和だった。

  *           *

 子供の頃、前菜の繁みに交わって咲いた紅白の椿をじっと見つめてゐると、花が何か話してくれさうな気がした。そして雨が降ってゐた。細い春雨に濡れても冷たくなかった。遊びに飽きた私は、紅白の椿の花を摘んで一連の花輪を造った。母は花は見るべきものであることを教へてくれた。そして、今も、あの裏山に、また私の家の庭先に、椿の花が咲いてゐることだろう。


   ▼菫も咲いていた
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  三月二十六日

 祖母の訃報を聞く。人間は悲しみにも馴れるものと見える。数々の苦しみが私を囲繞したので、私はその苦しみに馴れてしまった。

 人はさうして諦めることを習ふものらしい。座を立って、暫く悲しさを耐えて外へ出た。暖い春の薄霞に山が淡く、ぬるんだ小川の水に小さい魚がたくさん遊んでゐた。椿も、菫も咲いてゐた

 昨年から母と祖母を失った私は、そのやうな不幸に出合った人の心情を充分に汲める境遇になったことを思ひ、自己の、そして人間の魂は、どのやうにして育まれて行くものであるかが幾分わかったやうな気がする。

  
  三月三十日

 返信有難う。私もお前達が平和な日々を過ごせることのためには、本当に生命も惜しくないと思ってゐる。或る者は死の代償として無意識にまたは意識的に、名誉を欲する者がゐる。私は公衆に抜んでた一人ではない。公衆と同様頭を揃へたところの一人なのだ。恐らく私の存在を知ってゐる人は極少数である。従って、極めて平凡な、極めて世俗な人間故に、自己の名誉を望むほどの卓越者だとの自信は持てない。

 ただ私の行為が、将来お前達の平和な幸福な日を築くに僅かながらの用を成すなれば、私は私の今までの凡ゆる不幸に耐えしのんで来たことの意味があると思ふ。凡ゆる不幸と書いたが、私はいつも、常に自分より遙かに不幸な人々のことを考へることによって、自分の不運を嘆くことをつゝしんでいる。


   ▼土筆が伸び始めた
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 日毎に暖かくなって来た。飛行場の青い芝生に交つて背の高い土筆が伸び始めた。風流な心の持主の誰かが桃の花を手折って食卓の飾りとした。
  
  *          *

 新聞記者の作る合法的な嘘、社会をいびつなものとする大罪の一つである。人間は何故かやうに卑屈な性悪者として考へられなければならぬのか。

 悲しみが増えて行くことを残念に思ふ。

 私は今までの生活から、幾つかの極ありふれた単純な宝を見出した。苦痛は物質にて補ふべからざる事、幸福もまた主に精神的な幸福を意味する事、そして一番大切なものは健康である事、私の知り得た事はそれくらいだ。然し、私は知り得たのみならず、深く理解出来たことを悦びとしてゐる。


  四月二日
 
 静かな田舎の離れに楽しい春の一日を送る。椿、櫻、桃、などと春は美しい花の装ひに人の目を悦ばす。・・・・・・。
 母はよくこのやうな美しい景色にふれると、私を呼んだものである。「一寸出て見て御覧、とても綺麗」−私は今、フト呼ばれた気がした。

 此処、南国の暖い春風に誘はれて、野辺の桃も菫も、すっかり咲き揃った。

 春は私どもの頭の上で、その日々の雲が面白い行き足を見せてくれる。遠い山も、朝の美しい陽を受けて左側の斜面を輝かせ、その右側には深く蔭を作る。また黄昏の頃は、円らかな陽射しに山々が葡萄色の夢のやうな紫烟に包まれ、素晴らしい風景となる。

 私は時々、遠い山々を越えて行く微風の軽やかさに心を委ね、夢のやうな幸福を追ふ。

 私は、あの山の彼方に広い無人の境があり、どこまでも希望を求めて理想を追ふ美しい若人達が、手を組み、胸をふくらませ、高らかに青春の歌を合唱して、あの山みねを越えて行く様を心に画く。その時、私の心は、囲繞する現実の冷たさを忘れ去ってゐるのである。


   *              *

 幼い頃、母の里帰りに伴はれて、静かな寂しい母の家に泊まったことを覚えている。
 岩に当る渓流の激しい音と、ふくろうの啼く声に、夜は無性に怖かった。母のふところは、いつも私の逃げ場所だった。
 川の上を星が流れた。青く冷い星であった。

   *              *

 私の苦痛がどんなものかは、人に話したことはない。淋しい心には明朗さを、そして夢のない心には希望をもたせる必要がある。人の心の均衡は、その両者の巧みな組合せの上に安定している。私は淋しいから明るい希望に満ちた夢想を楽しむ。私は、どうしても、都会の人としての巧妙なテンポの早い素晴らしい理性に馴れることが出来なかった。私の胸裡にはやはり母から受け継いだ土の香りがしっかりと残っている。私の夢はいつも自然の美しい調和をのみ欲している。果樹園の赤い果実、そして静かな燭火、それがいつも私の心に点じて平和な不動の映像を為してゐる。


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 どこまでこのやうにメタフィジックなのだろうかと、自分で嫌になることもある。然し、私の根強い性格の一番大切な処もこれであらうと思ふ。

 私の廻りで世界は激しく動揺する。私は強烈なエゴイズムの上にじっくりと腰を下して、あくまで俺自身の信仰を遵奉する。

 昨夜来の雨も止み、盛りの櫻が散ってしまわぬかと心配した激しい風も、もう時々思ひ出したやうなあふりを捨鉢に投げかけるくらひにしか吹かなくなった。それも極く稀に、やがてこの嵐の終焉を思はせる。菫の花も小さく震へたことだらう。未だ去りやらぬ暗い乱雲の切れ間を、真赤な陽が沈む。本当に美しい。黄昏のしゞまの中に、東の山は暗く煙って、その西側の華麗さとは恐ろしく反対の印象を与える。


  四月九日

 小川の水もぬるみ始めた。小さな魚や小えびがゆるやかな流れの底に遊び、遅れ咲きの濃い菫が微風に揺れる。堤の草も背が伸びた。黄色い菜の花と白い土壁とが、やはり此処もと、和やかな季節の快さを思はせる。孟草竹の林の中に、一雨毎に伸びて行く筍が背伸びしていゐる。嶺嶺には、軽やかな白雲の春衣装に、今日は鮮明に浮び上る。

  四月二十四日、 雨、飛行作業なし

 人生わづか五十年。惜春の情未だ消えざるも、青山到る処に在りと念じ、皇国興亡の秋、五尺の形骸振って太刀をとれば、春日朗として桜花鱗粉の舞を舞ふ。美ましの国の、美まし少女の深き情をはたまたあでなる脂粉の白き頸を、そは偲bしつ、桃源の夢醒めしとき、初めて戒行を目す。 

  四月二十七日 小雨、飛行作業あり

 唐詩選より                                    五

 葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催

 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回

 
 実に良い詩だと思ふ。深い歴史に眼を投じ戦跡を追へば、東も西も正に争ひに充ちた血の過去である。朝に羅馬興り夕に亡ぶ。そしてその間、彼の征地にトれ再び還らざりしは易水の壮士のみではない。それを思ふと、正に戦場に再帰の栄を希ふことは極めて困難なことである。寧ろ戦場に草滴と散ることを希ふ方が永生の近路である。と、斯く観じつゝも、明日の生命を信ずべからざる身に、玉露の美酒を汲み、一夕の宴に酔ひ痴れて激しい熱情の歌を唄ふことは、人として止むお得ぬ心情であらう。そのやうな痴態をも、誰も笑ふことは出来まい。 
  
  四月二十八日

 靖国神社大祭に付休業、飛行作業なし。
  
  四月二十九日 (日曜日)

 昼食後釣りに出かける。

 静かな黄昏が訪れて、昼間ぬるんだ水が幾分冷たさうに見え出すと、浮きがふんはりと流れに浮いて、浮きのまはりに美しい空が映って見える。友達も皆帰ってしまった後で一人でゐると、まるで昔の思ひ出の中に取り残されたやうな気持ちがする。

 このやうな静けさが、このやうな平和が、自然の中にのみ残されてゐることに気付いてゐる人は案外少ないかも知れない。その昔・・・・・・たゞこのやうな静かな情緒のみを愛することの出来た時代なら私はきっと帰ることを忘れて、この黄昏のひとときを去り難く停回したに違ひない。


  六月十一日
 
 父宛にお前のことを許して貰ふための手紙を書いた。何と返信してくれるだらうか。どのやうな返信が来るだらうか。俺は待ってゐる。

 勿論再び生還を期せざる今の俺に、お前が来たいといふ気持は、本当の愛情故にか。俺が還らざる日あれども、お前は俺の魂を守り続ける墓守たり得るか。俺は楽しかるべきただ一度の現世の生活を、そのやうな形で終わらせたくない。冷静な現実的判断はお前にそのやうには囁かないか。世界の現実がどのやうなものであるかは、お前達には分からないかも知れない。

 
 楽観的ではないといふことは口にしながら、その本当の意味は分ってゐない筈である。

 皆んなの顔には、未だ憂ひの影はない。

 本当に世界を冷静に観察して見ると、現実が非常に苛酷な、そして憂慮すべき時期であることが分る。独逸は、新らしい信仰たるナチの精神に少しでもゆるみを見せる時は、思はざる崩壊を見るだらう。多分それは時間の問題であるかも知れない。

 英国軍の仏国進入に就いては、独逸は、仏国の全面的支援を得ることは絶対に困難であらう。

 歴史的感情と現実の問題よりして、仏国は必ずや此の戦争の結末に於て、英国側に媚態を呈することは明らかなことである。

 その時こそ俺達にとって最大の試練の時である。単なる数量の点より考へるも、俺達の生命が奈辺にあるかは自ら理解出来ると思ふ。

 北方に露、東方に米、西方に英、と凡ゆる恐威にさらされてゐる。

 
 その時のあるを覚悟して、俺は凡ての身の廻りを整えて置きたい。このやうな俺の信念は、どうしてもお前を不幸にさせたくないといふことの考へに通じてゐる。妻のただ一人の最も信頼すべき味方は、常に夫である。若くして夫を失った妻の将来は非常に不幸である。そのやうなことがお前の身に起こるといふことは俺にとっても淋しい。感情がただ一色にその人の生涯を通じて激しく燃焼することは、極めて困難なことである。若し夫を失った悲しみの裡に将来を暗く不幸なものにしてしまふのは、あまりにも気の毒だと考へてゐる。 

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  六月十二日 快晴
 
 有りし日のたらちねの母
 給ひし文を ふと今日も見つ
 胸溢ふるゝ淋しさよ
 日沈みて薄きばら色の空
 西のかた染めぬ
 夏の夜の夢に出でませ
 母が子の固きしとねも
 国守りの土のしとねとなる日間近し

 
 昨日は一番うれしいものに出会った。

 白いくちなしの花ーかって夏の日盛りを病床に過ごした時、母が庭先から摘んでくれたのを思ひ出す。二ケ月の永い病床生活だった。
 そして昨年は、母の病床に飾って上げた白いくちなしの花だった。
 いつも香りは忠実に変わらなかった。
 今年も、郷里を離れた南の国で、かうして咲いてゐてくれる。   


  六月十三日
 
 荘田学生、木村学生、と共に太田学生宅を訪れて正午近くまで雑談す。
 
 夕食後、途中迄お父様に見送られて帰隊す。
 
 早苗青き芽をふき、水田の面を蔽うて、美しい夕映の空を静かに映してゐた。

 子供たちが遠くから大きな声で呼んでゐる。振り向くとみんな揃ってお辞儀をした。本当に無邪気だ。あの子供達のために・・・・・・・・・。

  
  六月十四日 快晴

 俺の返信を待って落着かぬ日を過してゐることを思ふ。早く返事をしなければと俺の心の責任感が叫ぶ。はっきり云ふ。俺はお前を愛してゐる。然し、俺の心の中には今ではお前よりも大切なものを蔵するやうになった。

 それは、お前のあうに優しい乙女の住む国のことである。俺は、昨日、静かな黄昏の田畑の中でまだ顔もよく見えない遠くから俺達に頭を下げてくれた子供達のいぢらしさに強く胸を打たれたのである。もしそれがお前に対する愛よりも遥かに強いものと云ふなら、お前は怒るだろうか。否、俺の心を理解してくえるのだろう。本当にあのやうな可愛い子供等のためなら、生命も決して惜しくはない。

 自我の強い俺のやうな男には、信仰といふものが持てない。だから、このやうな感動を行為の源泉として持ち続けて行かねば生きて行けないことも、お前は解ってくれるだらう。俺の心にあるこの宝を持って俺は死にたい。俺は確信する。俺達にとって、死は疑ひもなく確実な身近の事実である。

 俺達の生命は世界の動きに続いてゐる。

 俺はどのやうな社会も、人意を以て動かすことの出来る流動体として考へて来た。

 然しさうではなさそうである。殊にこの国では、社会の変化は寧ろ宿命観に依って支配されてゐる不自由な制約の下にあるらしい。

 俺も・・・・・・平凡な大衆の一人たる俺も、当然その制約下に従はなければならない。 


  六月十六日
 
 夜中突然空襲警報あり、北九州地区に空襲ありたる由。この戦ひがかくの如き事態に至ることは初めから分かってゐた。人間の精神は未だに神秘や、そして未知の物に対する深い尊敬、或は恐怖を失ひ得ざる如し。一般に原始の感情をどうしても脱し切れない動物なのである。

 人間が生活する以上、必ずそこには精神生活が存する。そして精神・・・・・・そこには如何なる尊大な理性も到達し得ない一つの領域があり、それは皆に共通な部分でもある。従って其処を強烈に揺り動かせば、必ず共感や共鳴や、そして行動の源泉となるある種の感情を昂揚し得る。物質文化を営む米英人の、単に物質的のみでないことの理由はこれであり、この精神(愛国的或はそれに類似せる社会に有益な感情)は、総量に於て俺達の祖国愛や皇道主義と名形上の相違はあっても、力の点では差程違ひはない。ここに物質の質量に点に於て劣勢であることの非常な弱さがある。俺は精神もその社会活動の行為として表はれるという点で、ゲージに示され得る処の一つの個体と考へた。

 ホッブス以来この考へは余り誤ってはゐなかったやうだ。そして対象的なヘーゲリアンスクールの哲学者は、未だに夢を追ってゐる。

 イメージュやロマンティックな感情々緒が、行動の上に表はれる活動力の大きなパートであると考へるのは間違ってゐる。この考へ方は怠情と沈滞を生ずるものである。俺はヘーゲリアンスクールの考へ方に毒された多くの人を知ってゐる。彼等は愈々ドン・キホーテとなり、風車に槍をしごいてロバを駆る愚人となる。 


 何がさうさせたか、そして何が国民の啓蒙をさまたげたかは俺は知らない。然し物量の点に於て非常な劣勢にある俺達の国に、俺達が捧げ得る最後の資本が俺達の体である。俺はさう思ってゐる。本当に俺はこのやうな事を考へる時には、お前のことも忘れてしまふ。お前以外の事柄に夢中になるといふことは、お前にも不幸なことだらう。俺はその点でも今の気持ちでは、お前を幸福にしてやることの自信はない。お前に対する愛を、俺は国民に置き換へた。然し、静かな黄昏の散策に俺は親しい戦友と共に、美しい牧場や果実園の夢を見ることが出来るなんて、全く素晴らしい。俺は、この素晴らしい調和の完成のために死を賭して戦ふ者であることを思ふと、自分の行為に善美な理論を与え得るといふことで悦んでゐるし、幸福である。 

  六月三十日

 先日、中山中尉索敵哨戒の任務にて出発、そのまゝ行方不明となる。七人の妻よ、安らかなれ。

 今日、三十七小隊一番機墜落、根本少尉他一名、極めて元気なり。高島少尉脚を負傷、他の二名顔面及び手の火傷にて入室、兵曹長顔面に白き包帯して指揮所に事故報告に来る。搭乗員一名は即死絶命せり。オーバーブースト或ひはフラップ作動不良に依るストールなり。

 帝国政府は重慶政府に対し声明をなす。
 声明概要、「帝国政府は重慶政府を相手とせず。」よ云うのである。極めて心苦しい。既に之に対する国民の公正な言論の批判も許されない今日、一国家の体面よりするも極めて愚かなる声明なりと愚見す。敢えて之を取り挙げる者も出る筈はない。閉塞された輿論の中で、国民は忍耐と諦念のみを強制され続けて来たのであるから、真相を把握するだけのデータを有しない。マンネリズムと、そしてデマゴーグに依って社会を動かして来たことの舊悪の暴露である。国民の輿論の核心となるべきジャーナリズムの罪であり、更にジャーナリズムの言論を制約せsめた一つの或る強権力の罪である。


 必ずや社会は根本的な批判の俎上に立たねばならぬであらう。改革が必要である。

 デモクラシーの真髄を今一度理解しなければならない。個人主義(エゴイズムではない)は未だ吾人に完全にマスターされてゐない。

 ゲマインシャフトは、個々の脆弱な個人を信仰に依って結びつけてゐる間は、熱狂的な団結力をもたしめ得る。しかし、この絆が一度断ち切れるや、共通観念を失った個人に極めて哀れなものとなってしまふに違ひない。明治の憲政に華やかに登場した民権は、政党の没落と共に何処へか転落した。新たなる政治教育が必要である。

 然し、既に遅い。
       *                *

 八重子、極めて孤独な魂を暖めてくれ。
 俺はお前のことを考へると心が明るくなる。そして寂しさを失ふことが出来る。それで良いのだ。お前の凡てを独占しようと云ふのは悪い夢だ。お前にはお前の幸福がきっと待ってゐる。俺は俺達の運命を知ってゐる。俺達の運命は一つの悲劇であった。然し、俺達は悲劇に対してそれほど悲観もしてゐないし、寂しがってもゐない。俺達の寂しさは祖国に向けられた寂しさだ。たとへどの様に見苦しくあがいても、俺達は宿命を離れることは出来ない。

 あのやうな出来事あ、俺の心には何か遠い遥かな昔のことの様な気がする。それだけに思ひ出すと懐かしい。良い友をもったと悦んでゐる。あんなに親しい友達は、俺の過去に一人もゐなかった。俺はお前の凡てを知ってゐたし、お前も俺の凡てを知ってゐた。俺が何故お前を離れたか、お前は私を恨むことだらう。然し俺の小さなヒューマニズムが、お前の将来の幸福を見捨てさせやうとはしなかった。お前は、俺があのやうにして離れることで、きっと幸福な日を設け得るに違ひない。俺はその日の幸福を祈ってゐる。本当に幸福な日を迎へてくれ。

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