▼狩野光男さん画ー「言問橋」

消えた おひなさま 小畑教子
テレビで3月3日の“ひなまつり”を、放映していた。「祖母の嫁入りの時に持ってきたものです」。えっと思った。私は自分のものもない。
3月3日の“お雛祭り”。ちらし寿司を作りながら、母が「武子のが2組と教子のが3組あって」とため息をつく。「みんな生きていられたんだから、いいんだよね」と自分に言い聞かせているようだけれど、「あ~くやしい!」とよく言っていた。そうです、私の家は3月10日に、茨城県に疎開をする事になっていて、荷物を送れるようにしてありました。叔父やいとこも来ていて、にぎやかなのが嬉しくて私は9日の夜は、遅くまで寝られないでいたような気がします。
気が付いたら凄い音の中で、母が1歳の弟を背負い、私と3歳の弟を兵児帯(へこおび)でつなぎ、一番年上のいとこの腰に結わいつけ、「先に逃げなさいと」、大声で指示していました。眠いのと怖いので、ぐずって泣きながら、いとこにただ引きずられて、人の波にもまれながら、白ひげ橋に向って流されるように歩いていたようです。真っ赤な空に人の黒い影絵のような姿が動いているのを、ぼんやり覚えている。
突然「のりこ~のりこ~」「よしあき~よしあき~」父と母の声が聞こえた。私と弟は「おかあちゃんがよんでいるよーおかあちゃんが。おとうちゃんがよんでいるよー」いくら叫んでもいとこは聞こえません。燃え盛る火から逃げることで必死だったのでしょう。気が付くと父が私たちを、つかんでいました。奇跡のような事でした。二人の叔父と二人のいとこは、私たちと反対方向へ(言問橋方面)逃げていたようで、そのままでした。
親に抱かれてほっとしたのか朝まで、何があったのかも知らないでいました。焼け残ったお寺で、起こされました。周りの人が皆、顔が薄汚くびっくりしていると、父も母も真っ黒い顔と手で、焦げたお米で炊いたおにぎりをもらってきていました。「くさ~い。きたな~い」と泣き出す私に、いつも優しい父が、悲しそうな怒った顔で、「家も人も燃えてしまったんだよ!これもありがたいと、感謝してたべなさい」ときつく話されました。このときから、ひもじい毎日が何年もつづくことになりました。
テレビで他国の事として、戦火で苦しむ子ども、飢餓で苦しむ子どもが、放映されているが、あの時の私そのものだと思うと、目を背けたくなる。
▼絵本作家・吉村勳二さん写す

おそすぎないためにー3月10日を忘れない
1.わたしは逃げたの 炎の町を
幼いワタシと 幼い弟
ヒモで結ばれて お兄ちゃんと逃げたの
「先に逃げなさーい」と母さんの叫び
赤ちゃんを背負った 母さんの叫び
2.わたしはしゃべれないの あの夜のこと
燃える家 燃える人
ヒモで結ばれた お兄ちゃんがいない
「のりこ~、よしあき~」
母さんの叫び 真っ赤な空に母さんの叫び

3.わたしは生きたの あの夜を生きた
幼いワタシ 幼い弟
おにいちゃーん おにいちゃ-ん
涙があふれ ことばを失ったわたし
4.いちょうよ 黒こげのいちょうよ
声を持たない いちょう
声を出せない わたし
いちょうよ 勇気をください
わたしが語りだす 勇気を
おそすぎないために
おそすぎないために
この記事へのコメント