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zoom RSS 「沖縄恋唄」 私の昭和史

<<   作成日時 : 2010/05/14 08:34   >>

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「読ませてもらいまいた。」 阿波根昌鴻さんは、オレンジ色の表紙の詩集を、夕食後の食卓の上に、静かに置いた。島の土地を守りぬいてきた指で頁を繰った。たいせつな貝がらを開くように。それは、私が彼に贈った『沖縄詩集』だった。「このとおりです。」彼は言い、私を見た。

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「沖縄は、あなたが書かれたとおりです。よく書いてくださいました。」
体じゅうの血が熱くなった。それはふるえるような感動だった。火になった眼で彼を見かえした。伊江島の夜のように、濃い、深い沈黙が部屋に満ちた。

1965年7月、結成された「沖縄・小笠原返還同盟」に『沖縄詩集』を抱えてとびこんだのは、66年の秋だった。自分が生みだした詩を生きるために。

1952年4月28日発効した「サンフランシスコ講和条約」第三条によってアメリカ占領下におかれた沖縄。祖国のために島ぐるみ焼かれ、自民党政府の手でアメリカに売り渡された沖縄。復帰を願う者にはパスポートが拒否される沖縄。屈辱の日を本土との連帯の日に変えた4.28海上大会。そして1971年9月から11月にかけて、沖縄「返還」協定批准に反対する連日連夜のデモ。そのすべてに二人の子どもの手をにぎって参加した。1972年6月、渡航制限が解かれた沖縄に生れて初めて空を飛んだ。初の県知事選挙で革新統一候補支援のためだった。妬けるような青い空だった。

水涸れの島の夏に、悠々と水をまく米軍の住宅。廣井敷地にクーラーの利いた校舎。そのそばに湿った谷あいにおしこめられた北谷村の家々。「有事」のためにどこまでも真っ直ぐにのびる国道。嘉手納の村では、昼も夜も子どもたちの耳を襲う爆撃機のエンジン調整音になぎ倒されるクバの木。一方に、基地の金網ギリギリまで耕された畑。怒りも喜びもカチャーシーに歌い踊ってしまうこの島の心の豊かさ。


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数日前に到着していた北海道の歌舞団「こぶし座」と一緒に寝泊りした。ころころ笑う真澄ちゃん。おっとり型の上原さん。のんびり確実な国(くに)さん。三人きりで、道の辻、公民館、体育館と、どんな「舞台」でも、自分たちの歌と踊りでいっぱいにしてしまう「こぶし座」のエネルギーと文化に圧倒された。沖縄中部美里村での一ヵ月は、毎日が、蝶貝をひろうような感動の連続だった。

盆を伏せたように平(たいら)な島をひとめぐりし、たっちゅうに登って島全体を眺めながら太陽と波の音を聞いた。島ぐるみアメリカの基地。といってよい伊江島で、「伊江島に軍用地はありません。」きっぱり言ってのける阿波根さんの、自身に満ちた声を聞いた。基地を示すセメントの杭がさとうきび畑の緑の波に沈んでいた。伊江島を去る朝、濠の中に折り重なった百余の死体が発見された話をきいた。祖国「復帰」した沖縄の「戦後」の始まりだった。

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