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zoom RSS 父子草 私の昭和史

<<   作成日時 : 2010/07/17 07:41   >>

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晴れた日だった。父は、いつになく冗舌で、しきりと話しかけてきた。いつごろから父は、私を散歩相手に選ぶようになったのか。記憶をたどってみると、六歳の夏にさかのぼる。

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父と母、四人きょうだいの末っ子の私も含めて移り住んだ甲子園の浜辺は、まだひなびた所だった。夏の宵、風を求めて浜辺につづく松林の道を父につれられて歩くのが、私の日課になった。月見草の群生するなかを父のあとから、花の透明な黄色に憑かれたように黙々と歩いた。
その習慣は、戦争末期、家族と離れてくらした数年を除いて、戦後もどっていった大阪府豊中市でも、東京の荻窪に移ってからも続いた。父は得意で、草の名を私に教えた。

一九五一年、それは、私が高校一年生から二年生へ背のびしようとしていた春だった。巷は、オビエト・中国を含めての「全面講和」かアメリカとの「単独講和」かの議論に湧いていた。一九四五年八月十五日に敗戦で終わった第二次世界大戦では、その開戦に、一片の意見も問われなかった日本国民、とりわけ男たちは、職場でも、家庭でも、女子供そっちのけで議論の花を咲かせていた。
「民主主義」がもたらした大きな変化だった。
それにしてもちちが、熱をこめて議論できる相手は、十六歳の末娘だけであった。


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「わしはなぁ、理想としては全面講和じゃがソ連や中国が一緒ゆうのが問題じゃと思う。それに、一日も早よう日本の
主権をとりもどすには単独講和しかないと思うがな。」
父の意見を形成したのは何であったのか。高校一年生だった私は、「少女雑誌」で読んだイリンの『人間の歴史』から受けた感動で、自分の歴史観を百八〇ど転換させていたが、現実の政治にはまだうとかった。
その春の日の私は、祖国の運命について、初めて語ることを許された日本の男たちの興奮を、まぶしく、ふしぎなものに眺めている傍観者にすぎなかった。あんなにも晴れやかで誇らしげだった父は、あとにもさきにも見なかった。

一九五〇年、コミンフォルムとスターリンの干渉で日本共産党が分裂状態にあったこと。一九四八年の朝鮮戦争に先だって日本の民主的な組織の全てに弾圧が加えられていたこと。そのなかでも、一九五一年一月、産別会議、私鉄総連、全造船など四〇労組とその他の民主団体によって「全面講和愛国運動協議会」が結成されたことなどを知ったのは、ずっと後だった。
そして私が、父に代表されるおとなたちに批判的な意見を表明できたのは、数年後、私が初の選挙権を行使した日だった。
 (永井和子散文詩集ー私の昭和史)

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