満州っ子 平和をうたう

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<<   作成日時 : 2010/12/09 09:42   >>

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「かにかくに 有明村は恋しかりけり 思い出の山 思い出の川」、慶応義塾大学経済学部出身の上原良司は学徒出陣で入隊するまえ、遺本「クローチェ」の見返しに書いた遺書のなかに、この歌を残している。先の本ブログに掲載した宅島徳光海軍中尉とともに慶応同窓の二人が戦後の国民へ贈ったメッセージの第二段である。

 上原良司(陸軍少尉)が有明(長野県)の故郷に無言の帰還をしたのは、1946(昭和21)年4月26日のこと、特攻隊員ときまり、最後の別れを告げに帰郷した20年4月から一年経ってからであった。

▼母のいるふるさとに「さようなら」を告げた乳房橋
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 最後に帰郷した際、良司は母親には別れの言葉を言えなかった。部隊にかえるとき、家を出て遥か離れた乳房橋の上で立ち戻り、「さようなら」とこれまで聞いたことのない大きな声で三度も言うわが子を見て、母親は「良司は死ぬ気でいるんだな」と思ったという。その辺りは、兄の龍男が「アンズの花よ 乳房(川の名前)の流れよ 橋の上までくると我が家の赤い屋根が見えてくる。

 その橋を一年後、小さな骨壺に納まって帰還する良司だった。1946(昭和21)年5月15日、有明村は良司を含めた十一柱の村出身の戦死者の村葬を行った。ちなみに良司の戒名は「特攻院殉空良治大居士」という。


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 軍隊生活の体験を通して上原良司は、実証的に天皇制国家、全体主義の欠陥を見抜き、その敗北と自由主義の勝利を確信していく。特攻出撃の前夜書いた遺書と所感は、このまったく孤独な思想闘争の成果だった。この二通の手紙は「きけわだつみのこえ」に収録され、遺書は冒頭を飾っている。

 彼はそこで死生観を超克した思想を展開している。彼にとって死は、人間が一器械にされる非人間性の極致であり、天国にいる恋人に再会する過程でしかなかった。昭和20年2月の日記に「悠久の大義に生きるなんてことはどうでもいい」と彼は述べている。

 そして所感で「一器械である私は何もいう権利はないが」と前置きし、予想される敗戦後の祖国を自由な国にするよう、ひたすら国民に切願したのである。生命とひきかえにここに残した遺書は、数少ない22歳の特攻隊員の戦後の国民へ贈ったメッセージである。 (遺書と所感は次回に


【注】下欄は「満州っ子」が04年12月7日に作成したもの。
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