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zoom RSS 原爆のこと 杉田ハツヨさん

<<   作成日時 : 2011/05/21 10:59   >>

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「私だけが60年も生きさせてもらった。私には原爆の事を伝える義務がある」と口ぐせのように訴えていた杉田ハツヨさん。04年、「年金・江東」の4面で縦横に語っていただいたのが故人になられた杉田さん。私の古いフアイルの中から見つけ出した今、その思いを次の世代に伝えるため再現させねばならぬ・・・。

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 原爆投下の中心地から2キロ。広島市に生まれた。77歳(当時)。勤労学徒動員で宇品(爆心地から4キロ)の兵舎で、兵隊の汚れ物の洗濯や繕いをやっていた。

 8月6日の朝、水を手ですくい上げ顔を洗おうとしていた瞬間、マグネシウムのような光のあと、ドカーンという轟音で木の枝まで吹き飛んだ。

 当日は、市内中心地の家の取り壊し作業に動員されて広島のすべての中学生、女学生が被爆した。兵舎には次々と少年たちが担ぎ込まれた。柔肌は皮がむけ、顔も分からない。高温・高熱で翌日から腐敗がはじまり、ハエがたかり卵を産み、蛆が頭に住みつく。少年たちは「おかーさん」と言いながら亡くなった。その少年たちを畑のあぜ道に埋め、埋葬した。

 「人間がこういう殺され方をしていいのだろうか」その光景はいまだに脳裏に焼き付いて離れない。実家の家はペチャンコになり母はガラスの破片をあびるけがをした。私を心配した母は7日の夕方、下着を沢山もって訪ねてきてくれた。


 「喰うや喰わず」の日々始まる
 
 終戦後、士官候補生だった青年と結婚した。濠から飛び出して敵の戦車に爆弾を投げつける消耗品のように扱われた兵隊の隊長だったという。
 
 演劇を志した夫と上京、一人息子の3人で「喰うや喰わず」の日々が始まった。これまで健康に自信があったハツヨさんは、出産後肋膜に水がたまり、結核で肋骨8本を切りとる大手術をした。

 ハツヨさんは、聾学校の家庭科教師、拓殖大、独協大の日本語教師などで働く。生徒はフランス、ドイツ、ブラジルなど日本の企業に来た社員を教えた。生徒のなかブラジルからの相撲取りがいて各国の学生は初めて相撲の稽古を見学するなど国際交流をおこなう。


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 戦争は人間の尊厳なんて何もない
 
 昨年一人息子が55歳の若さで亡くなった。夫も。被爆者の仲間たちも一人ひとり旅だっていく。「私だけがあれから60年も生きさせてもらった。私は原爆の事を他の人に伝える義務がある」と機会があればどこでも訴える。

 「アメリカはいまだに原爆に対して謝罪がない」「政府は、爆心地から2キロ以内なんて一体どんな科学的な根拠があるんでしょう!?」「戦争は人間の尊厳なんて何にもないんです」温和な顔に怒りの言葉が続く。


【注】杉田ハツヨさんは1999年第20回「平和のための戦争展」で広島での原爆体験を語った。生前は江東区亀戸に住み、「高齢者医療センター」で江東年金者組合の組合員に見守られて逝った。

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