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zoom RSS 年金組合 永田久代さん

<<   作成日時 : 2011/05/23 07:43   >>

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1936(昭和11)年8月14日に東京・杉並区に三人姉妹の末娘として生まれました。今回の江東年金者組合機関紙・「心のファイル・組合員紹介」は永田久代さんです。父をあのノモンハン事件で亡くし、母親一人の手で育てられた永田さん。後年は教師生活ひとすじ、その波乱の半生を語ります。

▼?年前の記念写真 永田久代さん
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   父戦死 母強し
 
 軍人だった父は、ノモンハン事件(注)に参戦するために部隊を引き連れて満州に出征しました。母は家族を残して二歳の私を抱いてハルビンの官舎に出向きました。

 ノモンハン事件はご存じのように圧倒的なソ連軍の戦力に大敗してしまいました。約120名いた父の部隊も4名となり、父も1939年8月31日にパルシャガル高地にて戦死してしまいました。37歳の若さでした。33歳で戦争未亡人になった母は3歳になったばかりの私と遺骨を胸に東京の家族のもとにかえりました。でも母は強かった。父の両親につかえながら女で一つで愚痴一つこぼさず、私たちを明るく率直に育ててくれました。

 太平洋戦争の末期昭和19年の秋に両親の郷里である香川県に疎開しました。私はその地になじみ、すっかり田舎っ子となり、のびのび暮らしました。小学校2年の3学期から中学3年の1学期まで過ごし、その後上京し石神井へ落ち着きました。方言が抜けず、学校では恥ずかしくて、一言もしゃべりませんでした。


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   いたずらぼうず
 
昭和33年4月、三宅島阿古小学校に赴任。当時の島はエメラルドグリーンの海に囲まれ椎の木の原生林にはアカカッコが鳴き、ハイビスカスが咲き乱れるおだやかな天国でした。

 しかし私にとっては地獄そのものでした。なにしろ子どもたちが素朴なのですが言ううことを聞いてくれなくて教室から飛び出してしまうのです。追いかけると落とし穴に落とされて捻挫。つらくて毎晩職員室のイロリの中にポタポタととめどもなく涙を流しました。帰りたかった! でも船が来ない! 3年間辛抱して島を離れる日、あれほど手こずらせたいたずらぼうず共が岸壁に立ち、姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。

 その子どもたち(62歳)がこの6月に島で同窓会を開いてくれるとの事、今から楽しみにしています。


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   苦労に負けない
 
 江東区三砂小に転勤。結婚を機に三年余りで退職。商家に嫁いだので人に言えない苦労をしました。大病をしてそこから離れました。十年余のブランクの後、39歳で復職しました。江東区内四校で勤め、平成9年に定年退職しました。

 給食の時以外は立ちっぱなしの職業なので気づかないうちに脚、膝、腰などを痛めて52歳の時に、脊髄管狭窄症、甲状腺腫腹膜襄泡が見つかり大手術をしました。一命はとりとめましたが、体はボロボロです。そのたびにこんな事位で負けるものかと歯をくいしばって笑いとばしながら今日まで生きつづけました。退職後は、主人の仕事を手伝いながら、詩吟や日舞を習い十年余り続けましたが、一昨年主が亡くなり、心労から体調をくずしてやめてしまいました。


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 介護保険で要支援Aで週二回「いきいき健康クラブ」で汗を流しています。七月末の再認定では、だんだん基準が厳しくなって「杖、手押し車、補助装具付き」でヨタヨタ歩いていても「歩ける」にはいるので私ははずされるかもしれないと危惧しています。年寄りに優しい世の中にしてほしい!

 年金者組合の朗読の会(写真)に参加させて頂き声を出す事の楽しさ、大勢の人たちと交流でき一人暮らしの寂しさを感じています。


【注】◆ノモンハン事件 

 1939(昭和14)年5月、旧満州駐留の関東軍と、モンゴル・ソ連軍が、モンゴル東端のノモンハンで起こした国境紛争。日本側は約5万8000人が出兵したが、大火力の戦車を備えたソ連軍の前に壊滅的打撃を受け、死傷者は約2万人に上ったとされる。 

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