
21世紀に残した大きな貢献
千田夏光さんが亡くなられて、早くも三カ月が過ぎました。訃報に接したとき、電報で申し上げたように、私が墨田区に、千田さんが江東区に住んでいた関係から、選挙の活動でも早くからご協力をいただいていましたし、全国革新懇などのより広い舞台でも、ごいっしょに活動する機会がしばしばありました。
千田さんと語りあいともに活動した日々を思い出すなかでも、私がとくに心を打たれうのは、日本の過去の誤った歴史とそのもとでの国民的な悲劇を追及され、それを新しい時代の平和と民主主義の発展に生かそうとする、千田さんんのねばりづよく、一貫した活動です。

日本の軍国主義と侵略戦争の問題は、いまなお、日本の政治と社会のうえで重大な政治問題となっていますが、千田さんは、歴史の真実をふまえて、侵略戦争とその惨害にたいする文学的・政治的な告発を最後まで続けられました。
侵略戦争の残虐さと悲惨さを現した問題で、千田さんがその筆で描き出さなかった問題は一つもないと言えるほど、活動は多くの分野にわたりました。そして、日本の現在と今後を語るときにも、千田さんの発言の根底には、戦前の誤った歴史を絶対にくりかえさせな、という決意が、いつもみなぎっていました。

そこには、21世紀の日本にのこした、千田さんの大きな貢献があると思います。千田さんのこの業績にあらためて思いを寄せながら、「千田夏光さんを偲ぶ会」にあたって、心からの追悼の挨拶をおくるものです。
2001年3月23日
日本共産党中央委員会議長 不破 哲三
(江東革新懇ニュース NO111号 2001・4・25より)
【注】①千田夏光さんと“満州っ子”
千田夏光さんとはかって「江東革新懇」の例会のとき、よく隣り合わせになったことがある。そんなとき決まってはずむのが満州の思い出だ。なぜなら千田さんは大正13年大連生まれ、私は終戦時新京一中の一年生、いえば当時の満鉄の幹線「連京線」(大連→新京)でしっかり繋がっていたからかも知れない。大連の海水浴場・星ガ浦、ニレの木陰の素晴らしさから始まって、沿線の駅毎の情景描写などなど話しは尽きなかった。
それはともかく、千田さんが口癖のように呟いていたのが「気がついたときは、もう遅かった」が忘れられない。この国が戦争する国へとひた走ったときの反省がいましめの言葉として、警句として受け止めていたのでしょう。
②不破哲三さんと“満州っ子”
不破哲三さんが若くして党の書記局長に就任、衆議院議員の再選のとき墨田区の「不破事務所」に勤務していたのが“満州っ子”。政策担当として常勤3年間、公私ともにお世話になった。
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