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zoom RSS 心のファイル大滝絹子さん

<<   作成日時 : 2011/07/15 13:35   >>

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いつ頃のことだったか記憶は定かでないが、「年金・江東」の編集部から依頼されて「満州っ子」がインタビューアーとして取材に赴いたことがある。それが、この人・大滝絹子さん(住吉在住)。「想いは『琴』がかなでるようー私の出会いと別れー」と見出しを準備するなど事前の準備は周到だったが・・・。

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私の出会いと別れ 大滝絹子さん
 
 雨が降ります。雨の形容はたくさんあると聞きます。「しとしと」、「そぼふる」、「こぬか」など。梅雨入りのころでした。

 訪問を終えての帰り、バス停の列に並んでいると、「どうぞ、ご一緒に!」と傘を差しのべてくれた女性がいました。そんなこと初めてなので、とまどっていると、ニッコリ微笑んで「雨もいいんです。アジサイなんかとってもいいのよ」と。訪問後の緊張はもうほぐれていたはずですが、まだ少し「ボーッ」としていたのでしょうか、みかねたのでしょう。「相合傘」(?)でおもわず「ほっ」。


  大空襲とひどい食糧事情に
 
 大滝絹子さんを訪ねました。とぎれることもなく三時間ほどもよどみなく、時おり、身振り手振りもあって話がはずみます。戦争末期の一月一日(元旦)、東京市蒲田区生まれ、厳しい戦局をのがれて茨城県取手の伯父夫婦の家に親子五人(三人姉妹の末っ子)で転がりこんだといいます。

 終戦の年、まだ三歳にもならない頃のことを大滝さんはこう回顧します。「母におんぶされ薪を拾っている最中にサイレンが鳴ると私が『母ちゃん空襲!』といっていたと母に何回も聞かされていました」と。

 戦後、日本人の誰しもが体験したひどい食糧事情に話が及んで「私、今でも好きになれないのは、さつま芋」と肩をすくめるように、ひとしきりです。朝鮮戦争など昭和二十年代の話題にもすすみました。


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  いつか琴の音色に惹かれ
 
 県立取手第二高校を卒業した大滝さんは東京の生命保険会社に就職しました。それからどんな道をたどったのか、大滝さんならはです。この訪問の前に、得意のワープロできちんと準備をされていました.。手記が書かれていたので、それを引用します。

 「十二歳頃より琴の音色に惹かれ、いつか私も習いたいと思いつづけていたので、ある日、次姉から東京で研修生を募集していることを聞き、職場の人と二人で「東京労音民族音楽教室」を訪ね、そこの琴教室に通い始めることになった。(中略)初級、中級、上級を修了した後、民族音楽研究会に入り、助手に。労働組合や盆踊りに招かれたときなどは、仕事が終わってすぐ会場に行き、演奏した」と。


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  「太くて短い」人生でした
 
 研修中のある日「うまくなったな!」と師匠格の男性が絹子さんにそう言ったといいます。その人の名は大滝明さん。そうです、褒め言葉に換えたプロポーズだったのです。明(あきら)さんのことは当時「たきさん」と呼んでいたと言います。それからのインタビューは「たきさん」の話で持ちきりになりました。

 太鼓、カメラ、ビデオの名手だったそうですが、十一年前に亡くなりました。あの病気の「告知」を受けた後、たんたんと多くの人にお礼の言葉を遺して、五十二歳の若さ、「太く短い」人生でしたと絹子さんは言います。「いっしょに撮ったビデオは時どきみるのですね」と聞いたら「いいえ」と、「どうして?」「はい、いつでもみられ(逢え)ますから・・・」。と言ってにっこり。
 

 いつも、おおらか、てきぱき、きっちりの大滝絹子さん。三人の娘さんを育てあげ、今、どこにいても焦点の人に。バスを降りたら雨はやんでいました。夕方の空がすこし明るくなっていきました。 (永井至正記

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