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zoom RSS 心のファイル恵良淑子さん

<<   作成日時 : 2011/08/29 11:27   >>

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年金者組合江東支部の機関紙4面のページ。口の悪い人でもこの「心のファイル」は手放しで褒めそやす。それは登場人物の半生記が、読む人にとって自分の歩みと重ね合わせられるからだ。文字通り「昭和の歴史」。この世代の人たちにはつねにあの戦争がつきまとってくる。辛い悲しい痛恨のドラマだが一つの曙光もそこにある。

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 恵良淑子(えら・よしこ)さん。1939(昭和14)年1月5日、福岡県は戸畑(現在の北九州市戸畑区)で生まれた。6人きょうだいの3番目で長女である。2年後の昭和16年、お父さんの仕事(商社)の関係で中国・天津に渡った。

 天津で戦争の直接的な被害にはあっていない。この地での生活は「日本人租界」(もと中国の開港都市で、外国人が居留して、その地区の警察権や行政権をにぎっていた特別の地区)ということであまり苦労はなかったようであるが、お父さんが現地で召集され、行方も分からない状況のまま終戦を迎えた頃は長男がまだ小学校六年、母親一人でどんなに苦労されたことだろう。いまさらながら辛く思うと語った。
 日本人は収容所に集められ日本への帰国の順番を待ったのだという。1946(昭和21)年3月に引き揚げることができた。

 しかし、戦災をまぬがれた戸畑の我が家には焼け出された親類縁者の三家族が住んでいたのだという。屋根があればいい。物置までが住まいになった。そんな時生死も分らなかったお父さんが帰ってきた。5月のことであった。

    
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    すばらしい学校
 
 帰国してからの生活は生きるので精一杯、長女だったので生活の苦しさは母と共にあった。しかし、暗い人生ではなかった。「学校が私を救った」と話してくれた。いい先生に恵まれ、学校にいることが、生活全体を癒してくれたともいう。
 戦後の民主教育をめざす素的でとてもいい先生がいっぱいいた。「いろんな子どもたちがいるのに差別無く扱ってくれるすばらしい世界だった」と回想される。たしかに「軍国主義教育」の担い手にされていた自らの反省も込めた自由教育の実践は戦後の教育史をかざった。

 恵良さんは「清真的には幸せな戦後だった」とまで語ってくれた。教育のすばらしさと大切さを教えてくれる言葉だった。


    いのちの山河
 
 昭和36(1961)年結婚。長男は、ぜんそくとアトピーがひどかった。「公害」という認識はなかった。「小児麻痺、脱脂粉乳、カネミ油、等々」の一点で団結。子どもの成長を通して社会運動に目覚める。ご主人の転勤で中野区に居住。長男の病気治療は東京の大きな病院が・・・ということであったが医療ミスということで植物人間にされてしまった。
 夫の東京での任期は三年だったが子どもの闘病でその後九州に戻ることはなかった。「子どもの脳は再生する」「この子の命は病院が責任を持つ」との信念で対処した医師団と本人の努力で奇跡的に回復した。
 その長男の結婚式で主治医は「一度あの世を経験した子ども」と紹介した。「医は仁」である。

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