満州っ子 平和をうたう

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zoom RSS あの日 ピョンヤンにいた

<<   作成日時 : 2011/08/05 06:52   >>

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今年は戦後66年。八月になればよみがえります。1945(昭和20)年の夏は、思い出すさえ暑かったと誰もがいいます。あの日、8月15日の夜、私の乗っていた避難列車は北朝鮮のピョンヤン(平壌)駅ホームに。「マンセイ! マンセイ!」と歓呼する朝鮮の群衆に囲まれていました。
▼旧満州・新京駅前ひろば
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   あの年の夏は暑かった
 
 「本日をもって本校を閉校とする。だが、いつの日か諸君と対面できることを期待する」と校長はふりしぼるような声で宣言しました。時は、1945年8月10日、所は旧満州(現・中国東北部)新京第一中学校の講堂でのこと。私は旧制中学一年生、13歳の少年でした。

 空襲警報、ソ連機飛来で市内は大混乱。70キロ南の生家・公主嶺市に向かう列車に友人と飛び乗りました。続々と南下する無蓋(むがい)貨車は関東軍とその家族で超満員。武装した兵隊が退却しているのです。

 当時新京駅の助役をしていた長兄から後で聞いた話ですが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先して転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだったそうです。その結果、残された一般民間人、とりわけ満蒙開拓団の人たちが惨憺たる状態に追いやられたことは周知の事実です。


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 私は九人兄姉(男7人)の末っ子でした。

 三兄は、満蒙開拓で過労がたたり、23歳結核で没。墓はあの地に残したまま。
 
 四兄は、関東軍ハルビン特務機関員、24歳でシベリアに拉致され、重労働25年の戦犯に。
 
 五兄は、学徒出陣「誰のためでもない、逝くしかないんだ。後を頼む」と言い残して、神風特攻でフイリピンの空に果てました。学徒出陣・海軍中尉21歳でした。


 
 日本に引き揚げ、子どもから青年になった私のすすむ道は、学生運動(平和運動)ひとすじ。子どもながらも直(じか)にアジアの地であの15年戦争を目撃、体験をした者の選択肢はこの道しかありませんでした

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 先ごろ、40年前の区議に立候補したときのチラシ(写真)が見つかりました。文面に目を通すさえ懐かしく、あの頃のさまざまな思いがよみがえってきます。

 東京に「すがすがしい青空を取り戻そう」と決意したこと、全国に先駆けて東京が「老人医療費無料化」をかち取ったこと。そして、「二度と戦争は繰り返させない」という熱い想いを実践し続けてきたことなどです。

 あれから66年。傘寿を前にした私、3・11東北大震災を目の当りにして、後がない後期高齢者の希(ねがい)は、「平和なくして、福祉なし」の至言を次の世代に伝えることです。語りで、歌で、映像で。そして書き綴(つづ)って、それが生き長らえたものの責任だと考えるからです。

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