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zoom RSS 東京大空襲爆心地を歩く

<<   作成日時 : 2011/11/04 06:14   >>

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11月13日(日)に行われる「東京大空襲爆心地・深川を歩く」と題した案内チラシを頂いた。それには「炎の街から66年、街角や寺社にひっそりと建っている石碑(いしぶみ)に刻まれた誓いを見逃さないように歩きます」と書かれている。主催は「江東革新懇」と「区労連女性部」。訪ね歩く地にはヒューマンな物語が隠されていることをここで紹介しよう。


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    大空襲の爆心地とは
 
 「爆心地」といえば普通、広島、長崎で原爆が投下された地点を指すものと思われていたが、空襲の「爆心地」とは何を意味するのかと思ったら冒頭に、早乙女勝元さんの著書から次のようなフレーズが引用さていた。「昭和20(1945)年3月10日零時8分、木場二丁目、白河二丁目に第一弾、次いで三好一、二丁目付近。材木の町から火災発生、たばえた材木、運河うかぶ丸太もマッチ棒のように火を吹いた。零時15分、空襲警報がなった・・・」。つまり東京大空襲の初弾は深川に落とされた、悲劇の始まりは当時の深川区。だから「爆心地」と呼んだものと思われる。ユニークな発想だ。

【白河二丁目のこと】

@1976年に出版された写真集「石碑の誓い」で橋本代志子さんが書いた「李さんのオルゴール」
  http://38300902.at.webry.info/200907/article_4.html

A東京新聞10月29日、“東京 どんぶらこ“ 「白河」で早乙女勝元さんが書いた。


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追記
 1947(昭和22)年3月、満州から着のみ着のままで引き揚げて辿りついたのが江東区・深川白河二丁目だった。辺りは焼け野原、隅田川を越えて日本橋の「三越」が望見出来るほどの地にバラックを建て雨露はしのげたものの、喰うや喰わずの暮しの中、手を差し伸べてくれたのが平昌仁洙こと李さんだった。
 満州で洋裁師として定評のあったおふくろは洋裁教室の室長として迎えられ、旧制中学3年の僕には「腹が減ったら来なさい」と声をかけられていた。その李さんが北朝鮮に集団帰国してからの消息は分からない。戦前、戦中侮蔑されていた朝鮮の人・平昌さんのヒューマンな振る舞いは今もって忘れられない。白河町二丁目は、その後48年住み続けた僕の第二の故郷だ。

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