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zoom RSS 兄 神島利則中尉 特攻死

<<   作成日時 : 2011/12/15 16:29   >>

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全日本年金者組合江東支部の機関紙・「江東・年金」の紙面に「心のファイル」とうコーナーがある。組合員の半生を書き記したいわゆる「人」欄である。他の記事と違って「ここだけは読みますよ!」と評判のページ。当時編集長だった木村清子さんが私、満州っ子の来し方をつづってくれた。(2008年12月)

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 くしくも「兄、利則(としのり)が特攻死した日、江東区・清澄庭園の大正記念館で結婚式を挙げた日、長女・亜子が生まれた日が12月15日なんですよ」永井至正さんは語る。
 1932(昭和7)年、旧満州(現中国東北部)・公主嶺市生まれ、9人兄弟の末っ子。傀儡満州国をスタートさせた年。昭和の始め世界大恐慌は日本にも波及し、銀行の倒産、工場閉鎖、大量の失業者を生み、農村では娘の身売りまで起きていた。


  苦境打開として海外侵略、日本は破局の道へ
 
 こうした中で苦境打開に日本は、富国強兵、海外侵略を一気に加速し始める。1931年いわゆる満州事変を引き起こした日本は、軍を全面展開、泥沼の日中戦争に。そして、1941年12月8日、遂にパールハーバーを奇襲攻撃、アジア・太平洋戦争に突入した。しかし、翌昭和19年にはミッドウエーで大敗北、ガタヌカナル、アッツ、サイパン島など玉砕(全滅)など次々と敗北の道をたどった。

  正義の戦争と思いこまされ、青年たちは逝った
 
 永井さんは、ビデオ・「昭和の戦争」(全8巻)で当時の状況を思い起こしながら語る「特攻隊は武器・弾薬の乏しくなった日本軍の最後の手段でした。兄・神島利則(学徒出陣・当時海軍中尉、21歳)は、神風特別攻撃隊に志願させられ、12月15日、午前6時30分、第七金剛隊の一員としてフイリピン・セブ基地から爆装のゼロ戦に乗り、ネグロス島近海の輸送船団を攻撃、帰って来ませんでした。正確にいえば殺されていったのです」と。
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 兄の記録は、戦後、土浦航空隊で同期生だった戦友が編集、発刊した「雲ながるる果てに」におさめられました。ところが昨年(2001年)、「歴史教科書」が問題になったとき、特攻隊員の遺書が巧妙に引用されていると聞いて怒り心頭です。この国の政府は戦争を知らない今の子どもたちに、日本の戦争は正義の戦争だった、「自衛自存」と、「アジアの開放」のための聖戦だったと教えたいのでしょう。私の兄を含めて多くの青年たちが、正義の戦争と信じこまされて貴重な生命を失ったその苦しみの慟哭ともいうべき遺書を使うなんて許せません、と語る。

  自らもあの」15年戦争の目撃者
 
 1945(昭和20)年8月10日、「本日をもって本校を休校とする」と新京(現長春)第一中学校の校長が在校生徒(1〜2年生、3年以上はソ満国境に勤労動員中)を講堂に集めて宣言した

▼満鉄・新京駅のプラットホーム
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 永井さんは当時旧制中学一年生。前日のソ連参戦で市内は大混乱。「続々南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊、といってもその主力は南方戦線にとられ、当時の関東軍は現地召集の老年兵。僕も家族3人(母、姉)とかろうじて飛び乗ることができました。関東軍は、民間人を残し軍関係者を最優先させたんです」。永井さんはいわゆる15年戦争を子どもながらにも「外地での目撃者でした」と語る。

  平和こそ福祉守る道、若者たちに伝えねば
 
 永井さんは2年前、年金者組合の「綱領」をみて、ためらいなく入会を決意する。綱領には「日本国憲法は、すべての国民が個人として尊ばれ、平和のうちに生存する権利を保障しています。私たち年金者組合は、この憲法の理念を守り発展させ、より自由により豊かに生きて行く社会をめざします・・・」と。「平和こそ福祉を守る道、若者たちに語り継いでいかなければ!」と永井さんは締めくくりました。

【リンク】http://www.nagai-yoshi.jp/
http://38300902.at.webry.info/200808/article_5.html

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