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zoom RSS 東京大空襲から平和を考える

<<   作成日時 : 2011/12/19 07:25   >>

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11月23日に開かれた「第23回江東区高齢者集会」。表記の分科会では初めにNHKの「空襲映像」の上映の後、4人の方から生々しい空襲の体験が語られました。そのなかで河合節子さんは紙芝居を披露しながら「戦争はもういけない」と切々と訴えていました。

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   知ってください東京大空襲         
 
 いま千葉市に住んでいますが、当時深川2丁目、明治小学校の目の前で暮していました。当日(3月10日)は現場にいませんでしたが、あの日のことを語る人が少なくなる中で、若い人にどうやって伝えていこうかと思っていました。そのころ、千葉市で紙芝居を作って活動してる人と出会い、紙芝居をつくることを勧められて作ったのがこれです。

   <紙芝居>   朗読始まる
 
 深川2丁目に住んでいたが、空襲がらびたびあったので、茨城に疎開することにした。昭和6年に戦争を始めて中国に侵略していった。昭和14年にヨーロッパでは第二次世界大戦が始まった。太平洋戦争が始まると、日本は神の国だからといわれていた。昭和20年になると空襲がたびたびあった。東京を脱出することになり、家族は先に私を茨城に預けた。ある夜、叔父の家からみた東京の空は赤くかがやいていた。3月10日。そのころ東京は炎に包まれていた。2時間あまりで10万人が殺された。東京の空が輝いていた意味を知らなかった。東京の様子を叔父に教えてもらった。 

 7月ごろ、包帯をぐるぐる巻きにしたミイラのようになった父がきた。そして、母や弟がもういないということを悟った。そして、父の実家である愛知県に父と行くことにした。困難な旅だった。やっと父の実家にたどりついたが、四世代同居。父は東京に帰っていった。私は牛小屋で暮らした。8月15日にみんなで集まってラジオを聞いた。日本は負けた。絶対に負けない神の国ではなかった。


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 一年後、住まいと仕事を得た父に引き取られた。それは貧しい暮らしだったが、苦ではなかった。父と町を歩くと、顔中ケロイドだらけの父を振り返っていた。耳たぶもなく、顔をつっぱっていた。「こんな父に何か文句があるのか」とにらんでいた。父は体だけでなく、母を助けられなかったと自分を責めた。父は空襲で気を失っている所で助けられ聖路加病院に運ばれ、そのあと清瀬の病院に運ばれた。そうした方の半分は亡くなっていたようだ。

 私は助かったが、孤児になった人もたくさんいた。3万5千人。子どもは疎開していたので、助かった。助かったが家族が亡くなった子どもは多かった。この国の大人たちは何をすたか。何もしなかった。むしろ迫害した。親戚に預けられた子どもは差別された。多くの子が東京にもどり、浮浪児になった。食べ物を盗むとか、汚いとか目障りだということで、収容所にいれられてもいた。ここも餓えと虐待の修羅場だった。いいところにつれていくといわれ、栃木県の山に捨てられた子どももいる。やっと成人しても空襲での怪我や、学校に行かなかったことで、できる仕事に限られた。そんな厳しい中で多くの戦災孤児は生きていた。


 今の子どもの未来はどうか。多くの人が戦争はもういけないと思った。死んでいったすべての人の願い。しかし、今、戦争ができる国に戻そうとしている。二度と戦争を起こさせないように裁判の原告になっている。
 
 9.11テロもあった。アフガニスタンへの空爆があり、イラク戦争にもなった。戦争は人間の行為。どうすれば世界中が平和になれるか、知恵を絞りたい。私は今できること、それは東京大空襲を多くの人に知ってもらうことです。

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