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zoom RSS 心のフアイル 反町径子さん

<<   作成日時 : 2011/12/27 09:27   >>

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「心のフアイル 組合員紹介」。江東年金者組合機関紙の名物コーナー、今月登場は反町径子(みちこ)さん。読みすすむうち、その半生の歩みに親近感を覚えてしまった。それは彼女が幼児期に満州で育ち、長じてからは江東区役所に勤務するなど、満州っ子とはかって身近でお会いしていたかもしれないからだ。

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 取材しなければと以前から気にかかっていた方である。何年か前、本紙飢えの年賀状で「江東・年金」を楽しみにしているというメッセーシを頂いたこと。また、ある時は自作の「絵手紙」を送っていただき紙面を飾ったことなど、お礼をかねてこの欄で紹介しなければという思いがあった。今回、取材の申し入れを快く引き受けていただいたことに、まずもってお礼を申し述べたい。
 (聞き手ー佐藤睦郎)


  
  戦争に翻弄された幼少時代

 1942年1月19日、浅草は、雷門の近くで生まれた。 年があけると「古希」を迎えるという。お母さんの実家は、高級ぞうりの鼻緒問屋さんとか。活気ある様子が目に浮かんでくるような気がする。

 お父さんは、その頃二回目の出征中で不在。もともとの仕事場は、東京証券取引所。そこを辞めて家族四人で満州に渡ったのも1942年のこと。「南満興業」という軍需産業の会社に職を得た。居たところは奉天(今の瀋陽)。暮しぶりは、メイドを雇うぐらいだったから恵まれていたのだろう。

 第二次大戦末期から、1946年に引き揚げるまではとても波乱に満ちていた。舞鶴港に無事上陸できたのは、大変幸運だったのだと、今にして思う。日本では、東京大空襲で祖母と叔母さんが亡くなった。浅草に住まいは無く、築地に短期間、大田区に五年間居て浅草へ戻ったが、家とは名ばかりの外枠だけ残った建物に内装の手を加えて住居にした。苦労の多い時代だった。

  
  江東区に移り区役所づとめ
 
 江東区の小名木川寄りの都営住宅に移り、やっと落ち着いた生活になった。中学校は、大島中学校ということになる。都立本所高校に進学。大学へ進みたかったが家庭の事情で果たせなかった。出来ることなら「女子美術大学」あたり・・・。絵を描くのがとても好きで、それは今も変わらない。

 東京都の試験を受けて合格。配属先が江東区役所ということになる。もちろん、東陽町ではなく、白河町の元区役所(旧深川区役所)である。数多くの部署を経験することになる。

  
  江東区職労役員として奔走
 
 区内の労働組合の中心部隊といえば、何といっても「江東区職員労働組合」である。構成員の多さは言うに及ばず、豊な人材を誇る組織といっていい。「吉田栄作}とい懐かしい響きの委員長の名も話の中で出たが、反町さんは、そいう方々と一緒に組合役員として長いこと活躍された、いわゆる活動家であった。

 定年退職後、嘱託員として仕事をつづけたが、大病にあい悩み続けた。65歳で脊髄を手術し、歩けるようになったが、いまでも痛みが残っていて辛いのだという。人が多く集まるところは危なくて避けていると言った。ただ今が一番のんびりしていいとか。好きな映画鑑賞と絵手紙など・・・。満たされているようだった。体力をつけたいと結んだ。

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