
不忠と呼ぶ、可なり。国族と呼ぶ、可なり。もし戦争に謳歌せず、軍人に阿諛(あゆ)せざるをもって不忠と名づくべくんば、我らは甘んじて不忠たらん。もし戦争の悲惨、愚劣、損失を直言するをもって国賊と名づくべくんば、我らは甘んじて国賊たらん。
世は平和をとなうるを効果なしとす。しかも我らはただ一人の同志を得ば足る。今日一人を得、明日一人を得、三年、五年、十年、進んで止まらず、我は必ず数千、数万の同志を得るの時あるを信ず。(平民新聞)
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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