
死んでいった仲間の代弁者として
「戦中派」の世代の生き残ったことで存在を認められるものではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死にそこなったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き残ることによって、初めてその存在を認められるのである」と、吉田満が「戦艦大和」の最後に書いているのを読んでいたく感動したことがある。
この日多くの若者が特攻死した
不沈戦艦といわれた「大和」は6日、沖縄をめざし、片道燃料で特攻出撃、乗員3332人もろとも翌7日、奄美大島東方海上で撃沈された。護衛の駆逐艦「夕風」に乗り、撃沈され海中に放り出された知人が、戦後ことあるごとにその時の壮絶な様を語ってくれた。海上を漂流すること6時間、かろうじて救出された彼は、その後情報の漏洩を防ぐため、佐世保の某所に数週間隔離されていたという。この戦闘での生存者は記録によると276人だった。

特攻へ新聞記者の美辞麗句
6日はまた、この日だけで特攻機は陸・海軍併せて524機が九州南部の基地から出撃した。海軍飛行予備学生の遺稿集・「雲ながるる果てに」に掲載さている「川柳」の作者、及川肇(盛岡高工・岩手)、遠山善雄(米沢高工・山形)両中尉も零戦に搭乗、奄美近辺での戦闘で還らぬ人になっている。
◆夕食は貴様にやると友は往き
◆特攻へ新聞記者の美辞麗句
◆記念品受けて従兵涙ぐみ
◆特攻のまずい辞世を記者はほめ
◆25で死んで若さを惜しがられ

その日僕は誕生パーティー
、
1945年4月6日、この日国民学校(現小学校)を卒業した「満州っ子」は13歳の誕生日を迎えた。新京(現中国東北部=長春)中学に入学したことを記念して、誕生パーティーを開いていた。そのとき日本が南方戦線で苦闘を強いられていたことなど少しも知らず、「日本は必ず勝つ」とご馳走をまえに笑いこけていた。前の年の12月に兄貴が神風特攻で戦死したことを、友人たちにもてはやされ、「来年は俺も予科練に行く」などと目を輝かせていた。その4ヵ月後にたどる在満日本人の行きつく先を少しも思わず・・・。
今日、傘寿+1の誕生日を迎えた。戦後68年。自分のたどった軌跡をかえりみれば、曲節の連続だったが、言ってみれば「わが人生に悔いなし」だ。残された年、平和運動に身をゆだね、初心を忘れず、「この道よりほかに行く道なし」と銘じよう。
【リンク】
・ 「雲ながるる果てに」号外④
★http://38300902.at.webry.info/201004/article_4.html
・ 「雲ながるる果てに」-26-
★http://38300902.at.webry.info/201004/article_3.html
この記事へのコメント