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zoom RSS 兄・神島利則中尉特攻死

<<   作成日時 : 2013/12/15 06:33   >>

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昭和19年12月15日は兄・神島利則中尉が特攻死した日だ。この日神風特別攻撃隊・第7金剛隊の一員としてフイリピン・ネグロス島近辺で突っ込んでいった。21歳だった。彼の郷里は当時日本の植民地であった満洲・公種嶺市。母神島トミが利則戦死の通知を受けたのは23日のことだっった。

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 公主嶺市役所から知らせ)がしんだんだっt)を受けた母の狼狽ぶりといったらなかった。「トンちゃん(利則の愛称)が死んだんだって」「なぜ」「どうして」と泣き叫ぶ彼女をどうしたらいいのかわからなかった。
 国民学校(小学校)6年生の僕。その時の記憶は68年たったいまでも鮮明だ。これは後で知ったことだが、情報を総合すると次のようになる。


 「1944(昭和19)年12月15日、0630(午前6時30分)、フイリピン・セブ基地発進。250キロで爆装のゼロ戦3機、直援機2機、ネグロス島、周辺の敵輸送船団を攻撃するも戦果不明、全機未帰還」。戦後彼が部下に託した遺な
こうあった。「誰のためでもない、俺はいくしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後を告いでくれ」と。


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    公主嶺小学校校歌

 濃緑(こみどり)の 野は晴れて
 黎明(あけ)の空 光のどか
 すがすがし 学舎(まなびや) 公主嶺
 我等 日々 ここに集ひ学ぶ
 高きおせへ守れ 
 素直(すなお)に のびやかに

 
 右写真は僕が卒業した小学校。当時は国民学校といい、現中国・吉林省・公主嶺、鉄道北(満鉄)にあった。広大な土地にレンガ造りの二階階。教室は30教室ほどの校舎で華麗な建物だった。真ん中の煙突は暖房設備(冬季は零23度)が整っていた。中国人の小学校とは雲泥の差を誇っていた。昭和20年3月中ごろ卒業式には校歌と別れを惜しんで『海ゆかば』をうたった。そのころ、東京では大空襲があり、10万人もの人が死んでいったとは少しも知らず。あれから69年。

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【注】●戦後満洲から引き揚げてきて僕の進む道は「平和を守る」と学生運動に一直線。「なんで、この子はトンちゃんの真似(特攻隊)なんかして」と母親をぼやかせたほど。それから我が家と紙一重で生還した兄の戦友たちとの交流が始まった。今日は鎮魂の日だ。戒名は公忠院釈利剣居士。下のハガキは祥月命日に同期生たちが設立した白鴎遺族会からの「合掌便」。
12月15日という日
 奇しくも12月15日という日はメモリーの日が重なっている。@昭和19年12月15日、兄・神島利則海軍中尉、フイリピンで戦死。A昭和32年12月15日、江東区深川・清澄庭園大正記念館で永井至正結婚式。B昭和36年、長女。亜子誕生。予定日は13日だったが難産で2日おいて男子に生まれることを拒否した。

【リンク】http://38300902.at.webry.info/200912/article_15.html

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