
私は第五福竜丸のもつ意義は、これらの船にmまして、さらに重要であると考えている。なぜなら、第五福竜丸は過去の歴史というより、むしろ、未来の人類の命運を啓示しているからである。
三宅泰雄『戦争と平和と科学者と』(水曜社)
1973年財団法人第五福竜丸へいわ協会設立し、理事長として都立第五福竜丸展示館の管理運営に当り原水爆禁止運動につくした。
【今日の出来事3・4】1933年ローズベルト大統領就任、ニューディール製作開始 1957年自衛隊機が鳥取県で墜落、17人死亡
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
この記事へのコメント