
死んでいったのは少年と学生たち
内訳は、予科練などの出身者は1715人(61%)、飛行予備学生は649人(26%)、海軍兵学校は119人(0.4%)だった。将校の約8割は予備学生。年齢はなんと17歳から25歳ぐらいまでの少年、青年たちで驚くべきもの。「死んでいったのは少年と学生たち」だった。
昔も今もキャリアは特権階級
下の表は学徒出陣で1948(昭和18)年8月に志願して、土浦、三重の両海軍航空隊に入隊した(5111人)第13期海軍飛行予備学生の出身校別の戦没者数で、早稲田を筆頭に日大、六大学がづらりと並んでいる。とりわけ師範学校(当時全国で80数校あった)出身の259人が際立っている。記入していないが、九つの旧帝国大学出身者はわずか33人、うち特攻死は5人。特記したのは別に他意はないが、自身も師範出身で、歯に衣着せぬ毒舌家の先輩は「昔も今もエリート・キャリアは特権階級、他は消耗品扱いなんだな!」と驚いていた。

神風特攻隊 初攻撃から70年
10月25日の東京新聞夕刊。共同通信の配信を受けて次のように報道している。
太平洋戦争で日本軍が神風特別攻撃隊を初めて編成し、レイテ沖海戦で米艦船に体当たり攻撃を行ってから70年となる25日、出撃拠点となった基地跡があるフィリピン北部ルソン島のマバラカットで慰霊式が開かれた。(中略)
神風特別攻撃隊は、フィリピン中部レイテ島に連合国軍のマッカーサ司令官が上陸する前日の44年10月19日、大西瀧次郎中将が編成を命令。21日から出撃が始まったが目標となる米艦船を発見できず、25日に始めて体当たり攻撃を行い、空母戦と・ローを撃沈するなどした。
搭乗員の生還を顧みない攻撃は、人間魚雷「回天」などでも行われた。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻戦死者数は海軍4174人、陸軍2244人の計6418人に上った。
【注】特攻隊の戦没者数を陸海軍で6418人としたよりどころにしている「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」なる団体は、50年代に発足。発起人は元陸海の将軍たち。所在地は靖国神社境内の「遊就館」内にある。戦死者のことを英霊としていることなどから、いわゆる「靖国派」と言われる面々のカウントによるものと思われる。
作戦訓練中に事故死した者、エンジン故障で帰還、着陸時に死亡した者、8月15日天皇の放送後、部下を死なせて申し訳ないとして部下13人率いて夕刻沖縄に飛び立った宇垣中将などはカウントされたのか、不確定部分が多数あり、最後の一ケタまでの表示は甚だ疑問で何か意図が感じられる。
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