
利則が死んだ どうして なぜ
市公所(市役所)から知らせを受けた母の衝撃は尋常でなかった。「トンちゃん(利則の愛称)が死んだんだって」「なぜ」「どうして」と問い正すように空の一点をにらむ彼女。その母をどうしたらいいのか分からなかった国民学校(小学校)の6年生の僕。後に養父になる永井時三郎氏(戦後母と再婚)はポロリと涙を一滴、いたたまれずその場を外した。彼は生前「後を願います」という兄との固い約束をしていたという。そのときの記憶は70年もたった今でも鮮明だ。
情報は新聞紙上に掲載された大本営海軍部の発表だけ、「軍神」に続けと大書してあるだけ。これは後で知ったことだが情報を綜合すると次のようになる。

俺は行くしかない おふくろを頼む
「1944(昭和19)年12月10日、0630(午前6時30分)、フィリピン・セブ海軍航空隊基地出撃。250キロで爆装のゼロ戦3機、直援戦闘機2機、ネグロス島周辺のアメリカ輸送船団を攻撃するも戦果不明、前期未帰還」。前夜彼が部下(整備兵)に託した僕宛の書置きにはこうあった「誰のためでもない、俺は行くしかないんだ、。お前は男だからおふくろを頼むぞ」と。
戦後 平和を守る道 ひとすじの僕
戦後満洲から引揚げて僕のすすむ道は「平和を守る道」ひとすじ。「なんで、この子は利則の真似をするのだろうか、真直ぐに突っ込んでいかなくてもいいのに」とぼやかせた程だった。曲折はあったけれどこの年(傘寿を超えた)になっても持続している。
それから、我が家と紙一重で生還した兄の戦友らは生涯遺族と共にするために「白鴎遺族会」を組織、長く交流が続いた。だが戦後70年、一人去り、二人去りして今はもう途絶えがち、70年も経つとフエード・アウトしていく運命にあるのだろうか。
しかし、1944年12月15日は神島利則(戒名ー公忠院釈利剣居士)の祥月命日、戦後十数年続いた遺族会からの「合掌便」(下欄)は彼らとの絆の証(あかし)。そして平和を思い、希(ねがい)のパスポートにならなければ・・・。
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