戦後70年 「平和の俳句」 東京新聞 -30-

年初からスタートして今回で30週目に入った東京新聞の「平和の俳句」。本ブログでは一句残さず転載してきたが、ここに来て若干の息切れを覚えてきた。しかし、全句掲載すると決意した手前、終止符を打つわけにはいかず、さらに進めることにした。例により冒頭の一句から紹介しよう。

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    最高齢入選 101歳橋本カズイさん
 
 「平和の俳句」で「戦災の後の平和の有りがたさ」を詠んだ福井市の橋本カズイさんは百一歳。これまでの入選者の中で最高齢だ。30歳の時、東京大空襲に遭って三男を亡くした。「本当に火の海でした。今でも夢に見ます」。忘れることのないあの日の記憶をたどり、戦争のない平和に感謝している。
 1945(昭和20)年3月10日未明。東京の下町を約33万発の焼夷弾が襲った。福井から東京に出て結婚し、現在の墨田区本所で夫と共に理髪店を営んでいた。夫は徴兵され、長男長女は疎開中だった時に、橋本さんは6歳の次男、3歳の三男らと空襲に遭った。
 焼夷弾が降り注ぐ中、トタンをかぶって地面に伏せた。腹の下に次男を入れ、三男をおぶった。二人には、はんてんを三枚着せ、防空ずきんをかぶせた。
 「かあちゃーん、熱いよー、熱いよー」。背中の三男が訴えた。ずきんとはんてんが燃えていた。自分の服も燃えていた。急いで脱がせた。あちこち逃げ惑った末、焼け焦げた三男は息を引き取った。
 「頭はからっぽでした。どうしていいか、何も分からなかった。三男をすぐに寝かせて(手当てをして)いれば、命は助かったのではないか。今でもそれが頭から抜けません」
 翌日、三男の遺体を公園に運んだ。端から端まで幅広い溝が掘ってアッタ。トラックでたくさんの死体が運び込まれ、次々と溝に入れられていった。「サンマかイワシのように、上からポイポイと死骸を放り込んでいく。あー、これは地獄やと思った」。遺体を燃やしてお骨を持って帰りたかったが、かなわなかった。東京大空襲では約十万人が犠牲になった。
 空襲直後に故郷の福井市に帰り、両親や周囲の助けを借りて農業を営んだ。夫は終戦から六年後に亡くなり、女手一つで義妹を含め六人の子どもを育てた。
 入選した句には、苦労に苦労を重ねた橋本さんの人生の実感がにじむ。「あんなに恐ろしいことは二度としてはならん」。せんそうを憎しむ気持ちは、一度として忘れたことはない。(東京新聞ー藤共生)


戦災の後の平和の有りがたさ 橋本カズイ(101) 福井市 2015・7・19

】<いとうせいこう>百一歳は「平和の俳句」史上、最高齢。一句の脇にそっと「両手を合わせて拝んでます」と書かれていた。毎日この欄を読んでくれて感謝です。

赤ちゃんのお尻も頬っぺも平和です 冨川 法道(67) 三重県東員町 2015・7・20

】<いとうせいこう> なるほどあれが平和というものか。新鮮でかよわく愛らしいあの肌。 <金子兜太>孫誕生。すべてが平和の固まり。「お尻も頬っぺも」がうまい言い方。

戦時なら兄も誰かを殺すのか 田中 明子(40) 愛知県北名古屋市 2015・7・21

】<金子兜太>戦争になったら、あの優しい兄も人殺しになるのか。耐えられない。 、いとうせいこう>胸をつく問いである。そして男女同権の時代であれば女性の作者も、だ。

生きている証乳房に片手おく 近吉 三男(99) 石川県白山市 2015・7・22

】<金子兜太>乳房を片手でおおっているのは、まだ生きている証拠だ。死なせてはならない。この乳房、平和の証し、九条の如し。大切に。

白いごはんいつもの日常やさしい家族 藤原さくら(11) 愛知県安城市 2015・7・23

】<いとうせいこう。この当たり前に見えるものの維持こそが政治の目的であり、我々市民の望みである。簡単で難しい。だからこそ意義がある。それがつまり平和。

七十年歩んだ道はゆく道だ 高橋 大地(39) 金沢市 2015・7・24

】<いとうせいこう>過去を延長してゆく現在の中のこそ理想があり、現実が生まれるのである。 <金子兜太>戦後70年、九条の道を歩いてきた。これからはさらに確(しか)と。

蝉時雨孫はアンネの日記読む 宮司 孝男(64) 静岡県湖西市 2015・7・25

】<金子兜太>孫の感じている時代への不安感をおもう。蝉までが鳴きたてている。<いとうせいこう>その日記をフィクションだと思うかもしれない。事実だと知る時は今です。

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