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zoom RSS 写真集「満州公主嶺」第一部 回想の公主嶺 −2−

<<   作成日時 : 2016/02/02 06:43   >>

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写真集「満洲・公主嶺」の第一回目。最初は「公主嶺駅」の20枚を表示する。明治、大正、昭和の三代にわたる貴重な映像に望郷の念が強く迫ってくる.

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公主嶺駅 
 
 1903(明治36)年ロシアが建設した公主嶺駅は独特の風格をもっていた。「屋の棟を高くし、寺院の如き形に勾配を付け、棟上の煉瓦は青波の如く按配し、これに双龍を睨み合わせ、之れに配するに寺院,廟等に用ふる如き燈籠を装飾し、支那式趣味を見せたるは」と「公主嶺沿革史」は描写している。(写真集10頁)
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2 公主嶺駅正面
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 駅舎は中国・ロシア様式が混在していた。煉瓦はフランス積みで、窓枠は白く塗られていた。壁面には煉瓦を階段状に浮き出させたロシア・レリーフが見られ、建物の四隅にはコーナー・ストーンを模した凸凹の飾りがあった。冬季にはペチカが燃えていた。
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3 駅前で客待ちする馬車
 
 ロシア時代の遺産として忘れてはならないものに、ロシア馬車がある。露都ペテルブルグから持ち込まれた軽快な幌型の馬車は、彼らが去ったのちも、中国語で「マーチョ」と呼ばれ、市民の便利な乗り物、現代でいえばタクシーの役割をはたしていた。



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4 給水塔のあった駅前
 公主嶺の象徴だった給水塔は昭和4(1929)年に建設された。重厚なコンクリート製、高さは37.5メートル。したがってこの塔は町のどこからもよく見えた。母親の目の届くところで遊ぶように、子どもたちの行動範囲も、ネジアヤメ咲く敷島台あ畜産、ロシア墓地、水源地など、この塔の見えるところに限られていた。



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5 給水塔と構内食堂と駅舎
 公主嶺駅に向かって左側にsった構内食堂もまた、駅舎と同じくロシア建てであった。「構内食堂は駅のそれよりも尚ほ立派に建築し」と『公主嶺沿革史』は書いている。写真13を見ると、そのことがよくわかる。






 満鉄技術陣の総力を結集した特急「あじあ」は昭和9(1934)年11月、最高時速120キロで南満州の沃野を駆け抜けた。下り「新京行」が公主嶺駅を通過するのは16時40分ごろで、子どもたち4は線路ぎわのコーセン山(土が盛られていて小高くなっていた)に集まって、グリーンに白線の入った6両編成が地平線に消えていくのを見送った。上りが公主嶺駅を通過するのは9時40分ごろで、子どもたちは学校だった。

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6 公主嶺駅を通過する「あじあ」 
 
 この写真は泰平橋上から上り線を高柳祐之助(やなぎ写真館)が撮影したもので、昭和10年版『公主嶺要覧』の口絵を飾った秀作である。まだ跨線橋ができていないから撮影は昭和10年6月ごろか。
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7 駅のプラットホームと構内食堂
 
 この絵はがきの説明には「満鉄本線に唯一つのロシア当時そのままに残る駅舎、公主嶺停車場」とある。しかし駅舎の屋根などは直線的に改修されていて、厳密には建設当時のままではない。

8 跨線橋とプラットホーム上屋画像
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9 新設のプラットホーム
昭和9年8月に連京線が複線となり、翌年に中央プラットホームが拡幅され、跨線橋が新設された。この写真はその後、間もなく撮影されたらしく、まだ感じが新しい。

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10 明治末期の公主嶺駅
 
 明治45年ごろの公主嶺駅で、ロシア時代の面影がそのまま残っている。降り棟は大きく曲線を描き、庇の上には明かりとりの窓が並んでいる。大棟の双龍は三対と左右は一頭ずつで、のちに駅舎が増築されるにつれて、数が増えていった。駅舎の右は構内食堂で、さらにその右側に見えるのはロシア時代の給水タンクである

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11 降り棟の走獣
 
 古いロシア時代の駅舎には降り棟の上に何頭かの怪獣がいた。これは「走獣」と呼ばれる魔除けの動物で、中国の宮殿や寺院建築にいまでも見られるものである。


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12 大棟の双龍
 
 公主嶺の駅で人目をひいたのは大棟にいた双龍であった。この龍は造形的にも優れ、龍身は躍動感にあふれていた。また煙突の風見にも龍がデザインされ、ほかにも何匹かの怪獣が天に吠えていた。



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13 明治末期の駅舎と構内食堂

 向こうにまだ泰平橋が造られていないから、明治43年以前の古い駅舎の写真である。手前の構内食堂の降り棟は写真10と同様、大きく曲線を描き、ここにも「走獣」がいたことがわかる。屋根の形は複雑で、いかにも古めかしい感じがする。


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14 昭和初期の公主嶺駅
 写真10と比べると、屋根の違いがよくわかる。大棟の龍はそのままで、降り棟の走獣も何頭かいるようだ。跨線橋はまだなく、中央のプラットホームから線路を横切って渡っていた。右下にそれが見えている。給水塔がまだ建設されていないかあ、昭和3年ごろの駅舎であろう。

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15 泰平橋上から見た小学校
 
 泰平橋上は絶好の撮影ポイントであったから、多くのカメラが駅舎に向けられた。しかし、小学校まで入れたものは、この一枚だけで、左端に見える2階建てが小学校である。駅舎との間には幼稚園の建物も見える。構内食堂の屋根からはロシア時代の給水タンクがのぞいている。大正5年ごろ

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16 泰平橋上からの駅舎

 ロシア時代が公主嶺駅を建設したとき何よりも軍隊輸送の便を考えたから、駅舎のプアットホームを幅広く設計した。この写真からもそのことが実感される。それに比べると中央プラットホームはいかにも狭い。この写真は絵はがきで、写真の左下に「小久保商行発行」の文字がある。

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17 冬の公主嶺駅A
 
 冬の朝はダイアモンド・ダストとともに、木々の枝には樹氷が咲いた。後ろは泰平橋へ上るスロープである。この写真と次の写真18は、やなぎ写真館の根本信撮影のものと思われる。根本は昭和7〜12年やなぎ写真館の助手として働いていた。

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18 冬の公主嶺駅B

 こうして見ると、給水塔は高さ40メートル近くもあったとは思えないが、ぬきんでていたことは写真16からもよくわかる。写真17と、ほとんど同じ位置から駅舎の方を撮影したもの。






19 公主嶺駅の人々A(昭和14年5月)
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 公主嶺駅は、遼陽、瓦房店とともに、ロシアが1等駅とした東清鉄道の三大駅だった。写真佐竹栄(中央右)と木野仁治(同左)駅長の交代記念、下は清田赴夫(中央左)と佐々木清永(右・最後の公主嶺駅長)の交代記念写真。5年間に人員が80人から128人に増え、服装も変わった。
20 公主嶺駅の人々B(昭和19年7月

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