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zoom RSS 公主嶺小同窓会誌 第7章 エピソード −4−

<<   作成日時 : 2016/06/08 05:55   >>

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いたずらをすると「馬賊にやるぞ」とおどかされ、「チョ−サクリン、チョーガクリョウ」等の名前も聞き覚えた昭和4、5年ごろから、満洲各地の土匪の跳梁が何となく活発化する気配が感じられた。(記念誌269頁)

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   内地で案じた同級生
       三浦二郎(26回生)


 「犬くぎが抜かれた?」「レールは?」--電話を受ける父嘉門の断続的な声が夢うつつに聞こえた。線路妨害の報告らしい。やがて「電線切断」「脱線未遂」「鮮人農家襲撃」などと、不穏な内容の夜中の電話が逐次多くなっていった。
 郭家店へお花見の遠足に行くとき、実弾を持った数名の兵隊さんが、銃を肩に一緒に、前後しながら警備してくれたこともあった。
 昭和6年の8月の夏休みに、父の転任でバイカル丸に乗って内地に帰り、二学期に転入校して級友の名前を覚え始めた9月、満州事変が始まった。
 数日後に、後任大隊長の重傷、親しかった将校、兵隊さん達の悲報を聞き、公主嶺小学校のみんなはどうしているだろうと心配だった。ラジオでも、逐次焦燥的なニュースが多くなり、小学校4年生なりに、戦果拡大の朗報とともに、政情のあわただしさを身に感じた。

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【注】マスコミと満洲事変(2)
 このころ「10万の英霊、20億の国帑(こくど)」という言葉がよく使われた。これは満蒙の権益のために、日露戦争ではらった犠牲のことをさす言葉で、「このままでよいのか」と軍人はよく口にし、新聞もこの言葉を引用した。日露戦争から26年しかたっていないため、体験者も多く、彼らが伝える満蒙の権益についてのイメージは、国民に強く植えつけられていた。そこで事件が伝えられると「必勝祈願」のために、それぞれの神社につめかける人が日増しに多くなったという。
 当初、世論の動向におよび腰だった関東軍がこれを見逃すはずがなく、マスコミにリードされて熱狂する国民を前に、次第に「新満蒙の建設」を口にするようになった。しかしこのとき、この事変が太平洋戦争まで続く、15年という長い戦争の序曲になろうとは、国民にとっては思いもよらないことだった。

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