満州っ子 平和をうたう

アクセスカウンタ

zoom RSS 「あのころ」 伊藤聖さん 語る 満州・公主嶺A

<<   作成日時 : 2016/07/23 06:00   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

公主嶺の給水塔ーーそれはあの土地につながる思い出の象徴的な存在であった。私たちのあの時代が再びかえってこないと同様、あの塔も戦火に失われてしまって、もう見ることはできなくなってしまった。かぎりなく懐かしい存在として、私たちの追憶のなかにしか残されてはいないのである。

画像
   【あのころ】    「給水塔」   伊藤 聖
 
 公主嶺の給水塔は独特の風格をもっていた。ゆるやかな円錐形の屋根、ややふくらんだ貯水タンク、それをささえる12本の支柱、それらがどっしりとコンクリートで固められて、大陸的な重厚さでそびえたっていた。高さは40m以上ともいわれているが、写真にうっている樹木や電柱と比較しても、そのくらいはありそうである。
 したがって、この塔は街のどこからでもよく見えた。ちょうど母親の目のとどくところで子どもたちが遊ぶように、私たちの行動範囲も、陸軍官舎や畜産、武士道のさきのロシア墓地、ネジアヤメの咲く敷島台、連京線沿いの水源地と、給水塔の見えるところにかぎられていた。服部一男君が書いていたように、それは「公主嶺の街の母性を感じさせる存在」(「昭和17年卒業生同窓会誌」)だったのである。

画像
 給水塔の水源地の名もない小さな川から汲みあげられていたが、いまから思うと、この川の水量だけで十分であったとは考えにくい。まして雨の少ない冬には川の流れもやせ、氷結するおそれさえあったはずである。水源地のほかに、どれほどかは他の都市と同様、地下水に頼っていたのではないだろうか。
 給水塔には大きな鉄の扉があって、いつもカギがかかっていた。そばを通ったときなど、コンクリートの階段によって、その扉に耳をつけ、なかで動くものの音を聞こうとしたものだった。そのなかに地下水を汲みあげるモーターの響きがまじっていたかどうか、いまはまったく記憶がない。
 それよりも、高い塔のなかにあるはずの螺旋階段に、自分の足音を空想してみたりした。窓があるようには見えなかったが、明取りぐらいはあったろう。その薄暗い階段は考えただけでこわかった。そして、外光のもとでみる給水塔のコンクリ−ト壁が、不思議なほど明るく感じられたものだった。

画像
 給水塔がいつごろ建てられたのか、いま手元に資料がないので、はっきりしないが、公主嶺に農事試験場が設けられた大正2(1913)年以降であることは確かであろう。このころから満鉄は、鉄道付属地としての公主嶺市街の整備に力を入れ、上下水道を敷設してきたらしい。このことは、奉天が「水道は渾河地下水を利用して大正4年より給水、後各所に水源を設けて拡張に応じ」新京が「上下水道は対象2年より給水し人口の増加にも水源井戸を増設して支障なく行ってきた」(いずれも「満洲開発40年史」補巻)ことからも推測できよう。もう何十年も満洲の風土になじんできたかのごとく、根を生やし落着いてみえたが、私たちが接した昭和10(1935)年ころは、せいぜい建設後10年を出たくらいのところだったのだろう。
 この給水塔は、戦後の国共内戦のさい、国民政府軍によって破壊されたという。戦後引揚げてきた田中秀典君が、この話をしたときの表情には、敗戦時の公主利の混乱と壊滅がしのばれるようだった。

】破壊したのは中共軍でなくて国民政府軍だったのか?

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「あのころ」 伊藤聖さん 語る 満州・公主嶺A 満州っ子 平和をうたう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる