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zoom RSS 「あのころ」 伊藤聖さん 語る 満洲・公主嶺B

<<   作成日時 : 2016/08/03 05:19   >>

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手もとに「分水嶺の駅」と題した古い1枚の絵はがきがある。その写真説明を読むと「公主嶺は海抜695尺の高地にあり、此の停車場はロシアが兵站基地を兼ねて設置したのに始まり今日の隆盛をみる」と書いてある。
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   【あのころ】  分水嶺の駅   伊藤 聖 

 公主嶺の「嶺」という地名が、この高さ210mの黒遼分水嶺に由来していることはいうまでもあるまい。とはいっても、子どものころの私たちは、それほど高地の町という印象はもたず、むしろ地平線に沈む大きな夕日をみては、満洲大平原の真中にあるかのごとく感じていた。 
        
          ◇           ◇

 最近、完結した司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、日露戦争を通して明治の青春を描いたものだが、その最終巻にも、公主嶺の地名が数箇所でてくる。
 1905(明治38)年3月10日、奉天会戦で敗れたクロパトキンは、16日に鉄嶺を失い、19日開原を棄て、22日昌図に日本軍の進入を許した。


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 「クロパトキンとその主力は、遠く公主嶺まで逃げざるを得なかったが、日本軍にはもはや新鋭の予備兵力がなく、さらに砲弾の貯蔵も底をついてしまったため、追撃してこれを全滅させるまでにはいたらなかった」
 「クロパトキンと交代したロシア軍総司令官リネウィッチ大将は公主嶺の台地に総司令部を置き『雨季が終わらば日本軍を殲滅すべし』と、豪語していた」
 奉天決戦のつぎは公主嶺決戦、さらにはハルビン決戦というのが、ロシア軍の最初からの作戦計画だった。しかし、公主嶺の台地をめぐる攻防戦はおこなわれずにすみ、日露講話にともなう鉄道授受交渉が、翌年、両軍の対峙線に近い公主嶺駅頭でおこなわれたのだった


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 長春(寛城子)はもちろん、奉天でさえも荒涼たる朔風の天地に、ぽつんとちいさな駅舎が建っているにすぎなかったが、公主嶺は軍事上の要地ということで、ロシアが大規模の施設を残した。私たちが30年後に接した駅舎、機関庫、鉄道官舎などは、すべてこのロシア遺跡だったわけである。
 だが、駅舎にロシア風なところは、あまりなかった。正面に大きく反りをうった2層の屋根は、古い城壁の楼門を思わせ、竜が踊っているような棟飾りとともに、どちらかといえば、中国風な建物という感じを与えた。
 わずかに、白い窓わくのはまった赤レンガと、ペチカの煙突が、その主人公の趣味をあらわしていた。

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 もっとも、ロシア時代の駅舎は、此の写真のものではなく、向って左側の建物(写真にはわずかにその一部がみえる)であったような形跡がある。謙光社刊「満洲慕情」の歴史資料「公主嶺における日露鉄道授受委員一行」という写真に、この旧駅舎らしいものが写っているからである。
 この建物もホーム側に長い庇がのびていて、そういわれればロシア的な重厚な感じを見せていた。反対側の正面には西欧の教会を思わせるように、片開きのドアの上にステンドグラス風の長い窓がついていた。私たちのころには構内食堂として使われていた建物がそれである。
 いずれにせよ、公主嶺駅は南満洲鉄道のロシア遺構として特異な存在であった。それは、公主嶺のもつ地理上、軍事上の理由から生まれたものだが、私たちが公主嶺とのつながりをもったのは、そのためでもあった。公主嶺の「嶺」の一字は、思えば深い意味をもっていたのである。

写真】第二次訪中団(1985年・駅前広場で) 戦後40年、駅舎も変貌している。
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