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zoom RSS 「あのころ」 伊藤 聖さん 語る 満州・公主嶺D

<<   作成日時 : 2016/11/24 06:19   >>

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 公主嶺といえば農事試験場を思うほど、満鉄の農事試験場は有名であった。初代満鉄総裁だった後藤新平の雄図によるといわれているが、設立されたのは1913(大正2)年だから、2代総裁の中村是公のときである。(会報第3号)

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  【あのころ】 農事試験場  伊藤 聖
 
 同総裁が「その親友、橋本左五郎教授を旧札幌農学校(当時は東北帝国大学農科大学)から招いて、満洲農業開発方針の立案を依頼され、その結果、公主嶺の農事試験場本場と熊岳城の分場設置の構想が打ち出された」と元場長だった香村岱二氏は書いておられる。(「ああ満洲 国づくり産業開発者の手記」による)
       
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 この創設時に、農事試験場の職員によって、背たけほどの苗木が植えられた。これがのちに「農事試験場」という木の門標のあった入り口から、本館までの道路の両側200mにわたって、亭々とそびえる並木となった。設立のいきさつからも分かるように、当時の職員には札幌出身者が多かった。おそらく北大のポプラ並木のようにという思いがこめられていたことだろう。
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 樹種は「白楊」で、ドロノキ(マンシュウドロノキ)ドロヤナギともいった。ポプラの一種Populus Maximowicziiだから、やはり”ポプラ並木”といってもいいわけである。生長の早い木で、1935(昭和10)年ごろには、すでに高さ15mほどになっていた。
 私たちの小学校は、この並木と校庭をはさんで向かいあっていたので、春になると日一日と緑が濃くなっていくのがながめられた。そして、初夏の校庭には、雪のように「柳絮」が舞った。満洲唱歌で「やなぎのわた」を習って、私たちはそのなかを飛び回った。

 4年生になって間もなく、全校生(高学年だけ?)で農事試験場の見学に行ったことがあった。その年(1938年)。付属地行政権の移譲によって、農事試験場の経営が満鉄から満州国に移された機会に行われた。一般公開の折だったかもしれない。
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 このとき標本陳列館でみた印象は、長く私の脳裏に残っていた。それは数百にもおよぶ大豆や高粱の標本ビンだった。楕円体のガラスビンのなかの大豆は、一見したところどれも区別があるとは思えない形と色をしていた。しかし、それらはすべて、たゆみない品種改良の努力によって生みだされたものにちがいなかった。もっと注意してみれば、場長の中本保三氏が種芸科長時代に純系分離された世界的な品種「黄宝珠」の標本ビンも見つけることができたはずであった。が、なによりも私は、そのおびただしい大豆のビンの列に圧倒されてしまった。
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 公主嶺農事試験場の功績の最大のものは、この大豆の改良で、前期、香村氏の手記によると「黄宝珠」は公主嶺を中心に、北はハルビンから南は開源に至る中部満洲の主要農作物になった。そしてのちには交配種の固定による品種改良にも成功して、北満や西部乾燥地域に適した優良種も生みだされた。これらの品種には「公555号」「公562号」というふうに、改良の歴史を物語る名前がつけられたという。
 公主嶺にともされた科学の灯は、「農事試験場の一日」を通して、私にこのような学問の世界があることを教えてくれた。もちろん、だからといって、それははっきりした形をとることなく、すぐ意識の底に沈んでしまったけれどーー

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追記】■標本室
 講堂の2階にあった標本室には、入り口の両側に全満洲の土壌標本が並んでいた。室の中央には「豆子」と表示されたガラスケース(写真左端)があり、その周囲の8個の棚に公主嶺の農事試験場が改良した高粱・粟・稲・ケナフなどの標本瓶が整然と陳列されていた。これらが中国に引き継がれず、敗戦ですべて失われたのは痛恨のきわみである。(写真集 満洲公主嶺55頁)

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