
【あのころ】 畜 産 伊藤 聖
そういわれると、農事試験場のことを書いて「畜産」にふれなかったのは、心残りのような気もするので、もういちど書いておこう。
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当初の農事試験場には種芸科、農芸化学科、畜産科と3っの科があった。この畜産科の牧草地、つまり畜産試験場のことを、略して「畜産」といった。
もともと公主嶺に農事試験場がおかれたのは、「そこに付属地が広く空いていたためであって、満洲の中心であるという遠大な考えから来たものではなかった」らしい(香村岱二氏の手記による)。事実、公主嶺の鉄道付属地は、鉱区のあった撫順、鞍山は別として、奉天、大連についで大きく8.78平方キロ、そのうち農事試験場の広さは3.06平方キロで大部分を畜産が占めていた。(数字はいずれも1936年当時のもの。「満洲開発40年始」より引用)

この広い畜産は、愛川さんも書いているように、陸軍官舎の北西部一帯に広がっていた。というよりも、官舎が畜産の一部に入り込んでいた、と云うほうが適切かもしれない。もっとも、官舎のすぐ近くには遊園地があったので、私たちがわざわざ畜産のなかに入るのは、ほかに特別な目的があるときだった。
それは満洲補充読本でみた「フンコロガシ」をさがすためだった。動物たちの小さな落しものをみつけては、棒のさきでひっくり返したりしてみるのだけれど、なかなかめざす昆虫にはめぐりあえなかった。まして、丸くかためたフンを、1匹が逆立ちして押し、もう1匹がぶらさがるように取りついて運んでいくという、補充読本にあるような光景には、ついぞ一度もおめにかからなかった。

新校舎の2階には図書館があって、児童向きの全6巻の「ファーブル昆虫記」もそろっていた。そのなかには何種かのフンコロガシが観察してあった。何回も繰り返しそれを読むことで、この不思議な昆虫との出会いをあきらめるよりほかなかった。
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国立科学博物館の黒沢良彦さんから聞いたところでは、満洲にいたのは、タマオシコガネ(マンシュウタマオシコガネ)Gymnopleurus mopsus Pallas らしく、牛や馬や羊のフンを好んで丸め、玉にして転がす習性をもつという。
けれども、あのころ畜産で牛や馬を見かけた記憶はあまりない。公主嶺農試の品種改良の中心は豚と緬羊で、私たちが畜産といえば、ニーヤに追われながら、沈む夕陽のなかに遠ざかっていく羊の群れを思いうかべるのも、そのせいだろう。群れのあとについて、北飛行場への引き込線のあたりまで来てしまうと、そのあたりのニレの疎林はもう小暗かった。
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