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zoom RSS 終戦の日 私も北朝鮮にいた。中島守敏さん

<<   作成日時 : 2017/09/12 06:33   >>

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 8月16日付東京新聞の一面に掲載された私関連の記事を見た同紙のOB、港区の中島守敏さん(80)。「僕もあのとき北朝鮮にいた。あまりにも記事中の永井さんの行程と同じだった」。衝撃を受けた中島さん。「ぜひお会いして話をうかがいたい」と、取材した片山夏子記者に連絡を依頼したという。

▼中島守敏さん
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 片山記者の計らいで中島さんと私の出合いが実現した。所は錦糸町の喫茶店。中島さんは挨拶もそこそこに、「僕は当時当時8才、記憶はほとんど薄れ、父も満洲時代の話は全くしなかった」ので永井さんのお話をお聞きしたい、と切り出した。以下は中島さんが記憶をたどっての事実経過の説明だ。
 父は満洲の奉天(現瀋陽)の満洲飛行機工場に勤めていた。昭和19年B29の爆撃に遭い、工場が急遽疎開したのが公主嶺。僕は4月、公主嶺小学校の2年生に転入したが工場の生産行程がうまくいかず3ヶ月後に又奉天に引き返したから公主嶺滞在は僅か。そこでソ連参戦、避難列車で南下、敗戦の日は北朝鮮の北部の町で迎えた、というのである。
 難民生活の苦しさ、そして公主嶺という町の説明を私が話すことなど小一時間。10月27日に開かれる「公主嶺会」でまたお会いしましょうと約束してひとまず別かれた。

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】満洲飛行機工場の詳細については、記念誌「満州公主嶺 過ぎし40年の記録」「写真集 公主嶺」(右写真)に詳しい。引用する。 
■満洲飛行機は、奉天の満洲航空機株式工場(昭和7年9月創立)の事業・工場施設を継承して昭和13年7月設立。従業員は日本人約4100人、中国人約6000人という。満洲飛行機がなぜ公主嶺に疎開してきたのか。高碕達之助『満洲の終焉』は、そのいきさつをつぎのように述べている。
 「この会社の運命を完全に転換させる契機となったのは、昭和19年7月、鞍山と同時に行われたB29の奉天爆撃であった。空襲による被害は全然なくしてすんだのだが、この時、どうして手にはいったのか、B29の持っていた空中写真が軍の手に入った。その写真をみると、この満洲飛行機会社を中心として、半径数哩におよぶ詳細な地図が出来上がっている。この飛行機工場は秘密にされていたので、それまでは、おそらく米軍に知られずにいたものと考えられていた。それだけに、軍当局の驚愕は、この上ないものであった。鞍山製鉄所の疎開と共に、奉天のこの飛行機工場の疎開が直ちに取り上げられた。公主嶺、ハルビンにある軍の飛行場の格納庫に秘密裏に工場移転せよというのであある」。
 そして、12月7日、奉天工場がB29の爆撃を受けて機体工場約一万坪を焼失し、一部機能が停止したから、公主嶺とハルビンへの疎開を急ぐことになったのである。

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