
ダモイおおタシケントから還(かえ)ったぞ
増田靖夫(76) さいたま市見沼区
「ダモイ」は「家へ」という意味のロシア語。ソ連に抑留された日本人が帰国への願いを込めて使った。作者が子どもの頃、近所に住んでいた男性が帰国した。「タシケント」に抑留されていたと聞いたが、中央アジア・ウズベキスタンの首都だと知ったのは何年もたってから、想像以上の日本からの遠さに驚いたという・
何ごともなく日が暮れて青い月
小野正和(86) 東京都練馬区
核なくせ山河を渡る鶴の声
菅原 誠(46) 山形県鶴岡市
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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