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zoom RSS 「あのころ」 伊藤 聖さん語る 満洲・公主嶺I

<<   作成日時 : 2018/03/23 06:32   >>

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 このたびの訪中(1983年)では、できたらロシア人墓地にも行ってみたいという希望がかなえられた。ハルビンの中央寺院や墓地もそうだったが、公主嶺のロシア人墓地は、文化大革命のときに破壊しつくされ、その跡には農業科学院の生物物理研究室の建物が建っていた。ただ、その敷地の塀は昔のロシヤ人墓地の塀があったところに再建されたものと思われ、その塀を回ったところに、射撃場の射梁がそのままの形で残っていた。
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 「武士道」という変わった名前の小暗い道を行くと、その先に旧独立守備隊の官舎があり、いくつかの連隊があった。私たちのころには敷島台の連隊のほうが規模は大きかったが、それは昭和9(1934)年以降のことで、それまでは公主嶺には独立守備隊1個大隊と駐剳師団の騎兵2個中隊が置かれていただけだった。だからこのあたりは軍都公主嶺の発祥の地であった。
 その連隊の先は明るい草原になっていて、そこに射撃場があった。昭和2年4月現在の公主嶺付属地平面図には「射的場要地」と書いてあり、600mの距離がとってある。600mといえば、鮫島通りの端から端まであるが、父によるとそれが正規の射撃場の広さだったとのこと。ただし、一般の射撃訓練は300mで行われたという。
 子供のころの私たちは、よくそこえ弾拾いに行った。小山になった射垜の斜面からは臼のような形をした空砲の弾が出たが、ときには先のとがった小銃の実弾が見つかることもあった。先が丸くなったピストルの弾や薬莢はめったになく、子ども達にとっては宝物だった。

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 この射垜からは隣りのロシや人墓地がよく見えた。私はもっと近くにあったように思っていたが、こんど行ってみて、両者が50mほども離れていたのがわかった。弾拾いにあきると、私たちは墓地の塀を乗り越えてなかに入り、かくれんぼをして遊んだ。
 墓地はかなり広く、いつもしんと淋しかった。ヤナギの木が多く小暗らかったが内地の墓地のような陰気な感じはなかった。それでも、ひとりで十字架のかげなどに隠れていると、背筋がゾクゾクしてきて、はやく見つかればいいと思ったりした。あの十字架のそばに立っていた幹の白い木は、シラカバの一種だったのだろうか。彼らが故郷をしのんで植えたものに違いなかった。

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 いまの私なら、丹念に墓碑銘を読んで、そこに眠る人たちの身の上に思いをめぐらしたいと思うが、子どものころの関心は全くロシア文字の上にはなかった。せめて没年くらいは読んでおけばよかったと残念である。
 このロシア人墓地にはまぎれもない西欧があった。私はそこで初めてヨーロッパ文明の根底にあるキリスト教の横顔をみたのだった。白い大理石、高くそびえる十字架、軽快な樹々の葉かげ、木漏れ日・・・・・・。張りつめた空気は透明で、私に未知の世界を想像させるのに十分だった。
 最近になって、私は詩人の島崎曙海先生が公主嶺小学校に在職されたころ、「露西亜墓地」という同人誌を作っておられたことを知った。私はロシア人墓地と書いてきたが、詩誌の名としては、当然「露西亜墓地」でなくてはなるまい。もっとも、その名に安西冬衛らの「亜」を連想するのは、私だけの趣味かもしれないが・・・・・・。いずれにせよ、あの墓地で島崎先生も西欧文明を感じとられたに違いない。

[写真説明]上 かつてのロシア人墓地 下 日本人墓地跡にぬかずく(第一次訪中団

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