
主役は自家発電機 「でんちゃん」
物語は津波で停電し、原発事故も起きる中、でんちゃんが患者の命をつなぎ留め、停電が復旧するまでの5日間をたどっている。
震災が起きた時、高野病院には精神科と内科の患者約100人が入院していた。病院は震災発生から47分後、津波の影響で停電。その直後、自家発電機が作動し、人口呼吸器などがある重症入院患者の病室や、1階のナースステーションなどで電源供給が回復した。
自家発電機は約30年前に病院に設置されたもの。それまでは短時間、作動させることもあったが、震災後は、昼夜を問わず連続で稼動することになった。
ただ、自家発電による電力の供給は、患者の命にかかわる部分だけ。高野理事長は当時を「日の出とともに患者さんの食事の支度を始め、日の入り前に食事を終わらせ、車のライトで給食室を照らしながら片付けをした。夜間のおむつ交換はランタンをぶら下げてやっていた」と振り返る。
原発事故で避難したスタッフもいたため、残ったのは唯一の常勤医・高野英男元院長を入れて十数人のみ。交代はなく、不眠不休で働いたという。「仮眠だけでは疲労が取れず、脚がむくんで、痛みで階段が下りられないスタッフも。気を抜くと立ったままでも眠ってしまう。それでも明るくスタッフが働いてくれた。『ありがとう』と言うことしかできなかった」

スタッフ支え 患者の命守る
こうした窮状を支え続けたのが、自家発電機の「でんちゃん」だったという。
「もしでんちゃんが止まっていたら・・・。タンを30分置きに吸引しないと命に関わる高齢者もいた」
燃料の軽油が足りなくなると、近くのガソリンスタンドの店長が「鍵つけちくから持って行って」と鍵を渡してくれた。病院スタッフは台車にポリタンクを載せ、夜間でも数百㍍のがれきだらけの道を運んだ。
稼動から4日目、でんちゃんからカラカラと異音が出始めた。高野さんは止めるか迷ったが「止めたら二度と動かなくなるかも」と考え、祈るような気持ちで動かし続けた。緊迫した状況下、5日目に電力会社の職員が雨の中、発電機をつないで停電が復旧。でんちゃんは役目を終えた。
高野さんは震災から3年後、一連の様子を地元紙に物語ふうのコラム「でんちゃん物語」として執筆。読者から勧められ、絵本化が実現した。文と絵は、地元いわき市の絵本作家である管野さんが手掛けた。
絵本ではでんちゃんが必死で働く医師、看護師らを心配そうに見守る一方、スタッフが軽油を絶やさず、異音がするでんちゃんを励ます様子などが、管野さんの温かみのある絵と文章で絵がjかれる。菅野さんは「高野病院がなくなったら地元の人は困る。震災が忘れられていく中、多くの人に読み継がれたら」と話す。
一昨年、高野病院を支え続けた高野元院長が亡くなった。」4月以降の県からの常勤医の派遣はない。
窮状は続くが、高野さんは絵本の最後に載せた、でんちゃん宛ての手紙でこう語る。「いまも毎日の生活のなかで『もう、だめだ』って思うことがたくさんあるんだ。でもね、でんちゃんとがんばった日々を思い出して、高野病院のみんなといっしょに、どんなことものりこえていくよ」(東京新聞・「ニュースの追跡)
この記事へのコメント