
万葉の歌人大伴家持(おおとものやかもち)の詞に信時 清(のぶとききよし)が曲をつけました。
太平洋戦争の末期、ラジオのニュース放送の冒頭にこの曲がながされると、常に襟を正し、座り直したものです。それは悲しい知らせだったからです。アッツ島にはじまったサイパン、テニアンなどの玉砕の報道、特攻隊員の戦死の全軍への布告でした。
その対極にあったのは「軍艦マーチ」「抜刀隊」でした。大本営による緒戦の大勝利の際はともかく、昭和19年以後はそのほとんどが虚報でしたが、奏でられる”威風堂々”の調べに欣喜雀躍して拳を突き上げていたものです。
戦後73年、あの時代を今に重ねると複雑な思いに駆られます。戦争を知らない世代が戦争を語り始めています。若年の国会議員らが、”行け行けどんどん”のノリで北朝鮮、国際貢献などをひけらかし、憲法「改正」を強調するに及んでは、「戦争を頭だけで考えたらいけない、体験者の願いを強く感じないと、あの恐ろしさは分からない」の思いを強く持つのは私だけでしょうか。
昭和20年3月、旧満州の公主嶺小学校の卒業式では校歌を歌ったあと「仰げば尊し」「蛍の光」に替わって『海ゆかば』を歌ったことがよみがえります。再び繰り返してはならない戦争。そして、「海ゆかば」はもう歌いません。
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